日産労連
基本情報
- 所在地
- 〒105-0022
東京都港区海岸1丁目4-26
- TEL / FAX
-
03-3434-4721
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- 労働組合・団体
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- 礒﨑哲史
- 。東京都立新宿高等学校を経て、1993年に東京電機大学工学部機械工学科卒業後、日産自動車株式会社に入社し 自動車開発に携わる。 2005年から 日産労連 ・ 日産労 組常任委員、2007年から同NTC支部執行委員長、2008年から同副執行委員長、2012年から同・および自動車総連特別執行委員を歴任。
- 寺崎昭久
- あきひさ、1936年5月25日 - 2017年10月15日)は、日本の政治家、元民主党参議院議員(2期)。 北海道出身。1961年、茨城大学文理学部卒業。 日産 自動車に入り、 日産労連 副会長、自動車総連副会長を歴任。1989年の第15回参議院議員通常選挙で比例区に民社党より立候補して当選。その後、1994年新進党結党に
- 全日本自動車産業労働組合総連合会
- 一方、 日産 争議で全自動車(同 日産 分会)から脱退した労働者によって結成された 日産 自動車労働組合(後の自動車 労連 、現在の 日産労連 )や、全自動車を解散に追い込み企業内組合として組織防衛に成功したトヨタ自動車労働組合(旧全自動車トヨタコロモ分会、現在のトヨタ 労連
- 栗林卓司
- 1954年 日産 自動車に入り吉原工場に配属された。 日産 自動車労働組合( 日産労 組)に入り吉原支部青年部の結成に尽力。1964年(昭和39年) 日産労 組情宣部長、1965年(昭和40年)同副組合長になる。翌年日本自動車産業労働組合連合会(自動車 労連
- 全日本労働総同盟
- 日本自動車産業労働組合連合会(自動車 労連 ) - 日産 グループの労働組合で構成しており、1989年に全 日産 ・一般業種労働組合連合会( 日産労連 )と改称した。同盟の他、自動車総連にも加盟していた。 全国造船重機械労働組合連合会(造船重機 労連 ) - 現在の基幹 労連 。 全国電力労働組合連合会(電力 労連 ) - 1993年に電力総連に改組。産別一本化。
- 田渕哲也
- )は、日本の政治家。参議院議員(4期、民社党)。 兵庫県出身。旧制姫路高校卒。大阪大学工学部中退。1951年大阪 日産 自動車入社。大阪 日産 自動車労働組合組合長、全日本自動車販売労働組合組合長。日本自動車産業 労連 副会長を経て、1968年の第8回参議院議員通常選挙で民社党から全国区に立候補して当選し、4期務める。こ
- 塩路一郎
- 日産 争議を詳細に取材している ^ モデル小説、高杉良『労働貴族』に詳しい。 ^ http://biz-journal.jp/2013/02/post_1530.html ^ “塩路一郎氏が死去 元自動車 労連 (現 日産労連 )会長”. 日本経済新聞 (2013年2月6日)
- 日産争議
- 8月30日に宮家愈、塩路一郎らが 日産 分会から分裂して、会社側御用組合の 日産 自動車労働組合(略称 日産労 組)を結成、塩路が先頭にたって、刑事事件に発展するほどの分会側労働者の引き抜き・切り崩し作戦を展開する。長期化する紛争は社会問題化し、9月には衆参両院の労働委員会で参考人質疑が実施されている。この時、経営側は出席を拒否したが、 日産
- 全日本鉄道労働組合総連合会
- るといつストライキをやるか分からない」と要請。JR東日本では、鉄道の本務勤務は鉄道 労連 が占めた一方、雇用を守るために一時帰休や期限付きで他企業(いすゞ自動車や 日産 自動車など)やグループ会社へ出向・派遣に応じた鉄道 労連 の組合員も多数いた。 その後、旧鉄労系と旧動労系の間で組織を二分する対立が生じ、結
- 石原俊
- 日産 のシェアを10%へ引き上げるという目標を掲げた積極的な経営方針の表明であり、その後10年近く続く労使対立のきっかけともなった。 日産 では川又の前任者である浅原源七社長時代の1953年の大争議中に労使協調路線の労働組合である 日産労
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