瑞聖寺
基本情報
- 所在地
- 〒108-0071
東京都港区白金台3丁目2-19
- TEL / FAX
-
03-3447-5525
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 瑞聖寺
- 瑞聖寺 (ずいしょうじ)は、東京都港区白金台三丁目にある禅宗寺院。宗派は黄檗宗系の単立。山号は紫雲山。本尊は釈迦如来。開山は木庵性瑫、開基は青木重兼である。 瑞聖寺 は寛文10年(1670年)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年
- 白金台
- 1868年(明治元年):東京府成立に伴い、白金台町は東京府の所属となる。 1869年(明治2年):白金台町六丁目に白金 瑞聖寺 門前を合併する。 1873年(明治6年):白金台町一丁目〜五丁目に 瑞聖寺 の敷地を合わせて新たに白金台町一丁目とし、白金台町六丁目〜十一丁目に白金御料地を合わせて白金台町二丁目とした。白金海軍墓地開設。
- 毛利元朝
- なく、享保6年(1721年)4月19日、19歳で早世した。代わって、弟の宗広が嗣子となった。 法名は祐巌院殿四品賢良浄雄大居士。墓所は下関市長府の 瑞聖寺 、萩市椿東の東光寺。 父:毛利吉元(1677-1731) 母:品子 - 法林院、池田綱政の娘 婚約者:松平宣富の娘 [脚注の使い方] ^ a b c
- アルバート・オルトマンス
- 者救済を続けた。1930年に宣教師の職を辞してアメリカ合衆国に帰国した。 息子が明治学院中等部の教師になると、一緒に再来日する。1939年日本で死去した。明治学院と日本基督教会の合同葬で明治学院チャペルで葬儀が行われた。白金 瑞聖寺 に葬られた。 『長老・改革教会来日宣教師辞典』新教出版社、2003年
- マーティン・ワイコフ
- 園の理事を務め、ハンセン病患者の慰問をした。 1911年1月27日に東京白山の自宅で心臓麻痺により急死した。明治学院チャペルで葬儀が行われ、白金の 瑞聖寺 に葬られた。 『英作文初歩』(1885年) 『日本キリスト教歴史大事典』 中島耕二、辻直人、大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社、2003年
- 黄檗宗
- 長崎三福寺。 聖福寺 - 長崎三福寺に加えて長崎四福寺とする。 祥應寺 - 日本最大の柏樹(コノテガシワ)。 弘福 寺 - 江戸における鳥取藩主池田氏の菩提寺。 禅林 寺 - 太宰治墓所。 瑞聖寺 - 黄檗宗系単立。 青木重兼(開基)、木庵性瑫(開山)。 紹太寺 - 春日局墓所、小田原藩主稲葉氏の菩提寺。
- ジョン・クレイグ・バラ
- た。また、40年に亘り在日長老ミッションの会計を務め、健全なミッション運営に貢献した。 1920年(大正9年)11月15日に鎌倉で死去する。亡骸は 瑞聖寺 の明治学院墓地にレベッカ夫人と共に埋葬されている。 ^ バラ一家は、合同改革長老教会(Associate Reformed
- 毛利重就
- 戸桜田邸において誕生する。宝暦9年7月25日(1759年8月17日)に江戸桜田邸において死去、年8、法名は涼岳院殿慧林玉芳大童女、墓所は東京芝白金 瑞聖寺 四男:毛利治親(1754年 - 1791年) - 長州藩第8代藩主 側室:利尾(家臣飯田存直の娘・享和3年8月2日死去) 長女: 好(よし)子(1744年
- 青木重正
- 順、杉山検校の3名を特に派遣されて診療されていることが、綱吉の信任ぶりを示していると言える。享年69。白金の 瑞聖寺 に葬られた。家督は正室の子で次男の重矩が継いだ。 養父の重兼が菩提寺の 瑞聖寺 を創建したように、重正もまた禅宗に傾倒していたようであり、『土芥寇讎記』中で重正は禅学に傾倒し過ぎている、と苦言を呈されている。
- 木庵性瑫
- 1654年に来日していた隠元に招かれ1655年に来日、長崎の福済 寺 の住持となった。1660年に摂津国の普門 寺 、1661年山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、1664年9月4日、隠元の法席を継いだ。1665年江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山 瑞聖寺 を初め10余 寺 を開創し、門下も50余人に及んだ。1669年、将軍より紫衣を賜った。
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