隆崇院
基本情報
- 所在地
- 〒141-0021
東京都品川区上大崎1丁目9-24
- TEL / FAX
-
03-3441-8385
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 隆崇院
- 隆崇院 (りゅうそういん、慶安元年(1648年) - 寛文9年5月14日(1669年6月12日))は、甲府藩主・徳川綱重の正室。父は関白・二条光平。母は賀子内親王。 関白・二条光平の娘として生まれ、後に九条兼晴の養女となり、寛文2年(1662年)に甲府藩主・徳川綱重に嫁いだ。綱重は 隆崇院
- 賀子内親王
- 隆崇院 )を出産。後に二条綱平を養子とし(綱平の夫人は姪の栄子内親王)、永悟法親王(後西天皇皇子)を猶子とする。 天和2年(1682年)、夫の二条光平が死去し、賀子は剃髪し仏門に入った。 元禄9年(1696年)薨去。享年65。二尊院に葬られた。戒名は深信解脱 院 宮。 父:後水尾天皇
- 二条光平
- 後陽成天皇の皇女、後水尾天皇の同母妹 正室:賀子内親王 - 後水尾天皇の第六皇女、明正天皇の同母妹 女子: 隆崇院 - 九条兼晴の養女、徳川綱重正室 養子 男子:二条綱平 - 九条兼晴の子 女子:紅玉 院 - 綾小路俊景または山科言行の娘、鷹司孝子養女、徳川綱重継室 猶子 男子:永悟法親王 - 後西天皇皇子
- 伊東深水
- 院 賞受賞。1949年(昭和24年)、鎌倉に転居。1950年(昭和25年)、白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。1958年(昭和33年)、日本芸術 院 会員に推挙。1972年(昭和47年)、癌により5月8日没。享年75。墓所は品川区上大崎の 隆崇院 にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。
- 隆崇院 (恵那市)
- 晴雲山 隆崇院 (りゅうそういん)は、岐阜県恵那市岩村町1450にある浄土宗の寺院。恵那市指定史跡の石室千体仏は 隆崇院 が管理している。 晴雲山 隆崇院 は、岩村藩初代藩主の松平家乗の娘で知久直政に嫁いで寛永9年(1632年)に没した 隆崇院 殿晴雲貞受大姉から名付けられた。
- 隆崇院 (品川区)
- 隆崇院 (りゅうそういん)は、東京都品川区にある浄土宗の寺院。 1669年(寛文9年)、信誉良阿によって開山された。甲府藩藩主徳川綱重の正室 隆崇院 の菩提を弔うために創建された。当初は増上寺の塔頭であったが、1904年(明治37年)に現在地に移転した。 本堂は1962年(昭和37年)に竣工されたもので、
- 岩村藩
- 士 享和元年』という供養塔が建てられた。明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となった際に、乗政寺も廃されて、寺宝など一切は、近くの 隆崇院 に移された。 美濃国 恵那郡のうち 22ケ村 14,744石7斗7升2合 岩村、上飯羽間、中飯羽間、下飯羽間、根上、富田、久保原、上村、漆原、下
- 岩村町
- 石室千体仏 巖邑天満宮 岩村劇場 岩村町 盛巌寺 - 曹洞宗。 清楽寺(曹洞宗) 妙法寺 - 日蓮宗。 浄光寺 - 真宗大谷派。 隆崇院 - 浄土宗。 岩村町富田 東光 院 - 臨済宗妙心寺派。 岩村町飯羽間 徳祥寺 - 臨済宗妙心寺派。 武並神社 巖邨神社(岩村神社) 八幡神社 岩村神社夏祭り 武並神社・八幡神社秋祭り神輿渡御行列
- 長昌院
- 川綱豊・後に徳川家宣)、同3年(1663年)に熊之助(後の松平清武)を生む。しかし保良は綱重より7歳も年長で、しかも当時の綱重は摂政二条光平の娘・ 隆崇院 との縁談が持ち上がっていた。そのため、虎松は家老の新見正信が、清武は藩士の越智清重がそれぞれ養った。また、保良は清重に預けられるが、寛文4年(16
- 紅玉院
- 紅玉 院 (こうぎょくいん、? - 寛文13年8月2日(1673年9月12日))は、甲府藩主・徳川綱重の継室。 中納言・綾小路俊景(『幕府祚胤伝』では山科言行)の娘として生まれる。寛文9年(1669年)に甲府藩主・徳川綱重の正室・ 隆崇院 が没したため、寛文10年(1670年)に綱重に嫁いだ。その際、 隆崇院
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