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徳昌寺

基本情報

所在地
〒940-2402
新潟県長岡市与板町与板乙6025
TEL / FAX
0258-72-2423
e-MAIL
URL
業種
寺院
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徳昌寺
徳昌寺 (とくしょうじ)は、新潟県長岡市与板町与板にある曹洞宗の寺院。山号は香積山。本尊は十一面観音。 直江氏の菩提寺である。文明11年(1479年)、直江秀綱(戒名: 昌 山一徳居士)が開基となり、耕陰道夫和尚が開山したと伝えられる。主君上杉景勝の会津・米沢移封に直江家とともに移転したが、のちに現在地に戻る。
直江兼続
上述の通り、兼続と船は直江家菩提寺の 徳昌寺 に葬られたが、 徳昌寺 と上杉家菩提寺の林泉寺との間で争いが起こり、敗れた 徳昌寺 は越後に逃れたとされる。直江夫妻の墓石と位牌は尾崎家菩提寺の東源 寺 に移され、後に藩庁の裁定により林泉寺へと再び移された。位牌のみ東源 寺 に残され(一般非公開)、現在でも埋葬地につ
上杉定勝
寛永20年(1643年)、会津藩主・加藤明成の除封処理を行う。また、上杉氏の菩提寺である林泉寺と直江氏の菩提寺であった 徳昌寺 との僧録の地位をめぐっての争いの結果、 徳昌寺 を破却した。正保2年(1645年)、死去。享年42。嫡男・綱勝が跡を継いだ。 寛永15年(1638年)に六尺五寸一歩の三百一
林泉寺 (米沢市)
寺 に対する統制であったが、実際には藩内の全ての宗派・寺院に対して統制を加えることが可能であったと言われている。 寛永14年(1637年)、絶家となっていた重臣直江氏の菩提寺であった 徳昌寺 と僧録の地位をめぐって争った結果、 徳昌寺 は廃絶となり住職は与板(現在の、新潟県長岡市)に追放された。 徳昌寺 の 寺
直江景綱
従い石動山城(石川県中能登町)を守るなど、謙信に従って各地に従軍したが、天正5年(1577年)3月5日に病没した。享年は69といわれている。墓所は 徳昌寺 (新潟県長岡市与板町)。 景綱には男子がなく、婿養子となっていた直江信綱(長尾氏出身)が後を継いだ。後に信綱が毛利秀広に殺害されると、大身の直江家
井伊直経
尽力した。特に三条地震が起こったときなどは善政を行なって復旧に尽くしている。また、仏教に対して信心深かったことから、西本願寺与板別院や与板八幡宮、 徳昌寺 などを建設した。これらの事績から「凱悌の君」と称されている。 安政3年(1856年)6月30日、江戸にて58歳で死去し、跡を長男の直充が継いだ。 父母
木瀬町
曹洞宗永平寺末 徳昌寺 (とくしょうじ) 山号は圓成山。天正期に開創される。元は実相庵といい、1627年(寛永4年)に 徳昌寺 と改められた。1891年(明治24年)には焼失の憂き目に遭ったが、同年中に雲渓随流によって本堂が再建される。明治初期まで寺子屋が開設されていた。 本堂仏像は平安時代の物 曹洞宗永平寺末天宗 寺 (てんそうじ)
直江氏
米沢藩では、一門で高家の畠山氏(畠山義春の末裔)らを中心に、兼続は上杉家の減封をもたらした奸臣と評され[要出典]、米沢に移した直江氏の菩提寺・ 徳昌寺 も破却されて与板に追放されるなどした。しかし20世紀に入ると一転して兼続が称讃されるようになり、従来の評価が一変して今日に至っている。
天野氏
寺 満山了円。安芸国志芳庄雄峯 寺 に葬られた。 天野顕氏 … 父は天野顕義、母は(法号)浄智。子に顕忠がいる。通称讃岐守。永 徳 3年(1383年)2月15日に死去。享年70。法名は英徳 寺 泰翁智真。安芸国志芳庄雄峯 寺 に葬られた。 天野顕忠 … 天野顕氏の子。子に顕房がいる。通称蔵人、入道 昌

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