持明院
基本情報
- 所在地
- 〒543-0071
大阪府大阪市天王寺区生玉町2-15
- TEL / FAX
-
06-6771-6280
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 持明院
- 持明院 (じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。現在の京都市上京区安楽小路町の光照 院 の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、 持明院 統の由来となる。邸宅を 持明院 殿、また寺院を安楽光 院 (あんらくこういん)・安楽行 院 (あんらくぎょういん)とも称す。
- 持明院統
- 持明院 統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の皇子である第89代後深草天皇の子孫で、大覚寺統に対比する。この 持明院 統が、のちの北朝に繋がる。 鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを 持明院 と名づけ(邸宅は 持明院
- 持明院家
- 持明院 家(じみょういんけ)は、藤原北家中御門流の公家・華族である。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。 藤原道長の次男藤原頼宗の曾孫、藤原俊家の子・基頼の流れを汲む。江戸時代の石高は200石。家学は鷹匠、書道(筆道宗家)、神楽。 明治維新後、華族に列し、華族令発布後には基哲が子爵に叙せられた。
- 持明院陳子
- 持明院 陳子(じみょういん ちんし/のぶこ、藤原 陳子、承安3年(1173年) - 嘉禎4年10月3日(1238年11月10日))は、平安時代・鎌倉時代の女性。後高倉 院 の妃で、後堀河天皇の生母。父は正二位権中納言 持明院 基家、母は平頼盛の女(宰相局、後高倉 院 乳母)。同母兄に 持明院 保家、異母兄に 持明院
- 守貞親王
- 院 )。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め 持明院 宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ、法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉 院 (ごたかくら
- 大覚寺統
- 大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、 持明院 統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興
- 後深草天皇
- 1260年1月9日〈正元元年11月26日〉)。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮 院 )。北朝( 持明院 統)かつ今日の皇室の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の北朝と亀山系の南朝(大覚寺統)によ
- 南北朝時代 (日本)
- 明 から冊封されて「日本国王」となる。 合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく 持明院 統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は 持明院 統嫡流が断絶した正長元年(1428年)以後、激化することとなる。
- 北朝 (日本)
- 北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家や大覚寺統を含む皇族が支持した、 持明院 統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統後醍醐流の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年
- 南朝 (日本)
- 鎌倉時代に皇統は後深草系統の 持明院 統と亀山系統の大覚寺統のふたつに分裂する両統迭立が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に践祚して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇は倒幕計画を企て、1331年に三種の神器を 持 って笠置山へ入り挙兵すると、幕府の奏請により 持明院 統の光厳天皇が践祚する。
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