妙香院
基本情報
- 所在地
- 〒530-0056
大阪府大阪市北区兎我野町7-6
- TEL / FAX
-
06-6361-4055
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 大阪堺筋線 南森町 640m
- 大阪谷町線 南森町 650m
- 阪神本線 梅田 680m
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- 妙香院
- 妙香院 (みょうこういん)は、かつて滋賀県大津市の比叡山にある横川飯室谷に存在した延暦寺の 院 家。 藤原師輔の子で天台座主を務めた尋禅の私房として創建され、永祚2年(990年)に尋禅が父から継承した荘園を施入して一条天皇の御願寺とした。12世紀に師輔の子孫である藤原忠通の子・尊忠が門主になった後は摂関
- 覚如
- なお、大田壮一郎は、大谷廟堂留守職の裁定を下したのは、同じ天台宗門跡の 妙香院 であるとする(大田説によれば、室町時代に 妙香院 が青蓮 院 に吸収されるまでは本願寺は 妙香院 の影響下にあったとする。ただし、覚如と唯善の抗争および続く覚如と存覚の抗争中には青蓮 院 門跡が 妙香院 門跡を兼ねていた時期もある)。
- 門跡
- 法相宗 興福寺一乗 院 興福寺大乗 院 天台宗山門派 青蓮 院 (粟田御所) 魚山三千 院 (円融房、梶井門跡、梨本門跡) 南叡山妙法院 護法山安國 院 出雲寺毘沙門堂 曼殊 院 (竹の内門跡) 東叡山輪王寺(寛永寺) 日光山輪王寺(東叡山と兼ねる) 法住寺 滋賀 院 本覚寺 - 廃寺 浄土寺 - 廃寺 妙香院 - 廃寺 天台宗寺門派
- 大谷廟堂
- ^ 『存覚一期記』延慶2年条に「 妙香院 領法楽寺敷地事」と記されており、大谷本廟が 妙香院 門跡領に建っていたことが判明するとともに、当時の青蓮 院 門跡である慈深(一条実経の子)は、兼帯していた 妙香院 門跡の職務として裁定したものであることも判明する(大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会
- 良快 (僧)
- 藤原頼輔の娘。異母兄に九条良通・九条良経がいる。通称は飯室僧正・ 妙香院 僧正・本覚 院 僧正。 慈円や尊忠、覚什に学び、慈円から青蓮 院 門跡を譲られる。ただし、この継承は本来の継承者であった道覚法親王(後鳥羽上皇の皇子)が承久の乱の影響で青蓮 院 を退出せざるを得なかったことによるもので、道覚法親王はこれを認め
- 本願寺の歴史
- 院 に吸収されたために青蓮 院 の傘下に移ったこと、候人は門跡に近侍・奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、 妙香院 や青蓮 院 が本願寺の教義に干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺を擁護し続けた事実を指摘して、本願寺が青蓮 院 の末寺であったとまでは言えず、反対に 妙香院 ・青蓮 院 による庇護があったとしている。
- 孝明天皇
- 1852年) 第二皇女:富貴宮(1858年 - 1859年) 養子:睦仁親王(明治天皇) 典侍 坊城伸子(1830年 - 1850年) 第一皇子: 妙香 華 院 (1850年) 中山慶子(三位局)(1835年 - 1907年) 第二皇子:睦仁親王(明治天皇)(1852年 - 1912年) 堀河紀子(1837年
- 兎我野町
- 2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。 西福寺 圓通院 法界寺 本傳寺 龍興寺 龍渕寺 妙香院 善覚寺 ウエルネスライフ本社 関西テレビライフ本社 関西テレビハッズ本社 関西テレビソフトウェア本社 メディアプルポ本社 関西テレビ青少年育成事業団本部
- 定額寺
- ようにあらかじめ定額寺として建立する例が見られるようになる。やがて、こうした定額寺は御願寺の原型となった。正暦元年(990年)に尋禅が建てた延暦寺 妙香院 が定額寺の指定を受けたのを最後に歴史から姿を消すことになる。 なお、延慶元年(1308年)に、北条貞時の申請によって臨済宗の円覚寺と建長寺が定額寺とされている。
- 伊賀良荘
- 東西五里にわたる広大な荘園となった。阿南町の二善廃寺の応永19年(1412年)銘の棟札や瑞光 院 の享禄元年(1528年)の鐘銘から当荘の一部であったことがうかがえる。 平安後期の院政時代には、摂関家の門跡 妙香院 に寄進され、応和元年(961年)の同荘園目録に名が見える。信濃の皇室領荘園としては最早期の成
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