三津寺
基本情報
- 所在地
- 〒542-0085
大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目7-12
- TEL / FAX
-
06-6211-1982
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 大阪千日前線 難波 390m
- 阪神なんば線 大阪難波 410m
- 近鉄奈良線 大阪難波 410m
- 大阪御堂筋線 なんば 480m
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- 三津寺
- 寺院名は 三津 (御津)という地名に由来し、中世に荘園が成立する頃には寺院名に由来する 三津寺 荘という地名になり、逆転現象が起きている。大坂の陣以前まで 三津寺 村だったが、以後島之内の開発により大坂三郷に入った。江戸時代から1989年(平成元年)2月まで、当寺院南側の 三津寺 筋に沿って「 三津寺
- 宗右衛門町
- 1989年(平成元年)の町名改正により、心斎橋筋2丁目の心斎橋筋以東かつ宗右衛門町通以南、畳屋町の畳屋町筋以東かつ 三津寺 筋以南、笠屋町・玉屋町・千年町のそれぞれ 三津寺 筋以南、長堀橋筋2丁目の堺筋以西かつ 三津寺 筋以南を編入し、現在の町域となった。 訪日外国人観光客によるインバウンド消費の増加を背景に、戎橋北東袂
- 島之内
- 大宝寺(だいほうじ)通 - いちょう通りとも 清水町(しみずまち)筋 - 清水通とも 周防町(すおうまち)筋 - 周防町通、ヨーロッパ通りとも 八幡(はちまん)筋 三津寺 (みつでら)筋 - 三ツ寺筋とも表記され、「みってら」と発音されることが多い 新屋敷筋 - 炭屋町筋 - 心斎橋筋間のみ 宗右衛門町(そうえもんちょう)通
- 東心斎橋
- 1989年に実施された町名。旧町名は鰻谷中之町、大宝寺町中之丁、東清水町のそれぞれ畳屋町筋以東、長堀橋筋(町名)の堺筋以西かつ 三津寺 筋以北、千年町、玉屋町、笠屋町のそれぞれ 三津寺 筋以北、畳屋町の 三津寺 筋以北かつ畳屋町筋以東。 2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 国勢調査による人口の推移。
- 西心斎橋
- - 三津寺 筋間はアメリカ村(アメ村)と称され、古着屋などが集積する関西屈指の若者文化の発信地として知られる。 道頓堀川 1989年に実施された町名。旧町名は北炭屋町、南炭屋町のそれぞれ全域、鰻谷西之町、大宝寺町西之丁、西清水町、周防町、八幡町、 三津寺 町、久左衛門町のそれぞれ御堂筋以西。
- 在大阪韓国総領事館
- 1949年に駐日本韓国代表部大阪事務所が発足した。1966年に総領事館に昇格し、大阪市東区馬喰町5丁目27号に置かれた。1974年、庁舎を御堂筋(大阪市南区 三津寺 町12)へ移転し、住所は後で大阪市中央区西心斎橋2丁目3番4号に変更された。2018年5月、庁舎の建て替えに伴い、五味ビルにある仮庁舎へ移転した。
- 難波津
- 難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区 三津寺 町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の 三津寺 説は、同寺にまつわる伝承や「 三津寺 」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港
- 大阪平野
- そして古代より中国や朝鮮半島との船での往来の拠点としていくつかの港津が開かれた。住吉大社の西方に位置していたと考えられる住吉津、大阪市中央区 三津寺 付近にあったとされる難波津、そして現在の堂島川にあったと思われる渡辺津や江口、現在の堺市に位置していたとされる榎津である。ただし、江口は難波津に来
- 塙直政
- なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田信長の重臣。山城守護として槇島城主になり、次いで大和守護も兼務して多聞山城主となった。石山本願寺との戦いに敗れ、摂津国 三津寺 で一族らと共に討死した。(他の名前の説明は下記) 名字の読みについて、『織田信長家臣人名辞典』は『寛政重修諸家譜』(『重修譜』)では「はなわ」と訓
- 真言宗御室派
- 大洲市)、海南寺(愛媛県今治市)、鎮国寺(福岡県宗像市)、持宝院(岡山県倉敷市) 準別格本山 延命寺(愛媛県四国中央市)、大瀧寺(徳島県美馬市)、 三津寺 (大阪市中央区)、遍照寺(京都府京都市右京区) その他の寺院 明通寺(福井県小浜市)、慈眼院(大阪府泉佐野市)、
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