聖護院門跡
基本情報
- 所在地
- 〒606-8324
京都府京都市左京区聖護院中町15
- TEL / FAX
-
075-771-1880
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京阪本線 神宮丸太町 750m
- 京都市東西線 東山 1140m
- 京都市東西線 三条京阪 1310m
- 周辺情報
- 聖護院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)
- 聖護院御殿荘光淳 旅館
- 京都市武道センター補助競技場 その他のスポーツ施設(小規模)
- 京都市武道センター 武道館
- 京都市立近衛中学校 中学
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- 聖護院
- 聖護院 (しょうごいん)は、京都市左京区 聖護院 中町にある本山修験宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は不動明王。開山は増誉。 聖護院門跡 ( しょうごいんもんぜき)とも称する。錦林府とも称された。かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三 門跡 の一つであった。 日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の
- 門跡
- ようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。また、御由緒寺院、尼 門跡 寺院(皇女や王女が務める寺院)ともいう。寺格が高く、皇室から特別の礼遇と特権を与えられ、住職は各宗派の管長と同等の待遇を受ける。 浄土宗の知恩 院門跡 は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ
- 修験道
- 聖護院 で、その 聖護院門跡 がしばしば三井寺(園城寺)長吏に任じられた。後に江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし、両派に分けて競合させた。ただ本山派は 聖護院
- 道興
- 聖護院門跡 。 関白近衛房嗣の子。兄弟に近衛教基、近衛政家、三宝院政深、実相院増運、浄土寺政弁。寛正6年(1465年)に准三宮宣下を受ける。 幼少の頃から出家し、 聖護院 満意の弟子となりその後継者と位置づけられるが、室町幕府から将軍足利義教の子である義観を 聖護院
- 花園天皇
- 1353年)- 仁和寺 門跡 第三皇子:直仁親王(1335年 - 1398年)- 崇光天皇皇太子 皇女:儀子内親王(? - 1348年?) 皇子 - 聖護院 皇女 - 花山院某室 後宮:一条局(? - 1325年)- 権大納言正親町実明女 第一皇子:覚誉法親王(1320年 - 1382年)- 聖護院門跡 典侍:葉室頼子(冷泉局・別当典侍)
- 光格天皇
- 明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第六王子として生まれる。誕生の翌年、 聖護院 宮忠誉入道親王の附弟となり、 聖護院 に入寺。将来出家して 聖護院門跡 を継ぐ予定であった。 安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子
- 三宝院
- 三宝院(さんぼういん)は、京都府京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派の大本山の寺院。 門跡 寺院で、総本山醍醐寺の塔頭であり、本坊的な存在。本尊は弥勒菩薩。また、かつては真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(2023年(令和5年)現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。 三宝 院門跡 は醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。
- 熊野三山検校
- 院門跡 が三山検校を相承したとする酒井彰子「中世園城寺の 門跡 と熊野三山検校職の相承-常住院から 聖護院 へ-」(『文化史学』48号、1992年)の説を支持して、14世紀末に大峰修行の儀礼化・体系化を進めた常住 院門跡 ・熊野三山検校の良瑜が 聖護院門跡
- 近衛尚通
- 1567) - 大覚寺34代 門跡 男子:覚誉(1506 - 1562) - 一乗 院門跡 男子:道増(1510 - 1551) - 聖護院 30代 門跡 男子:久我晴通(1519 - 1575) - 久我通言の養子 女子:花屋理春(1501 - 1576) - 宝鏡寺 門跡 男子:徳大寺公維(1537 -
- 実相院
- 実相院(じっそういん)は、京都市左京区岩倉上蔵町にある天台宗系単立の寺院。山号は岩倉山。本尊は不動明王。開山は静基(じょうき)。 門跡 寺院の1つである。岩倉実相 院門跡 とも呼ばれる。かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三 門跡 の一つであった。 鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野
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