黄檗山萬福寺
基本情報
- 所在地
- 〒611-0011
京都府宇治市五ケ庄三番割34
- TEL / FAX
-
0774-32-3900 / 0774-32-6088
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR奈良線 黄檗 410m
- 京阪宇治線 黄檗 430m
- JR奈良線 木幡 1340m
- 京阪宇治線 木幡 1580m
- 京阪宇治線 三室戸 1790m
ウィキペディア検索
- 黄檗宗
- 黄檗 宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする。本山は、隠元隆琦の開いた京都府宇治市の 黄檗山 (おうばくさん) 萬福寺 。 黄檗 宗の名は、中唐の僧の 黄檗 希運(? - 850年)の名に由来する。
- 萬福寺
- 萬福寺 (まんぷくじ)は、京都府宇治市にある 黄檗 宗の大本山の寺院。 山 号は 黄檗山 。本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した 黄檗 宗の中心寺院で、明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
- 隠元隆琦
- 28歳の時、母死す。印林寺で 黄檗山 の僧である鑑源興寿に会い古 黄檗 で出家するよう勧められ、1620年に出家した。29歳で、生地である福清の古刹で、 黄檗 希運も住した 黄檗山萬福寺 の鑑源興寿の下で得度した。 33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が 萬福寺 に晋 山 するに際して、これに随行した。35歳で[要出典] 黄檗山
- 煎茶道
- 日本における煎茶道の開祖は、江戸時代初期に禅宗の一つである 黄檗 宗を開いた隠元隆琦とされている。このことから、現在も全日本煎茶道連盟の事務局は京都の 黄檗山萬福寺 内に置かれ、同連盟の会長は 萬福寺 の管長が兼務することが慣わしとなっている。 18世紀、茶道の世界において形式化が進み
- 黄檗駅
- 京都府統計書によると、1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 駅の東側は 山 が迫っており、その中腹には中国大陸からこの地に至った隠元隆琦を開祖とする 黄檗山萬福寺 があるほか、高台を切り拓いた住宅団地「 黄檗 台」などの住宅地が広く所在している。 一方、駅の所在する五ヶ庄地区(駅周辺および西側一
- 万福寺 (福清市)
- 万 福寺 (まんぷくじ)は、中華人民共和国福建省福州市福清市 黄檗山 にある仏教寺院。 萬福寺 の祖庭。現寺は1989年から1997年までの所建である。 唐の貞元5年(789年)に慧能の弟子の正干が建立したのがこの地の始まりで、創建当初は般若堂と称していた。大中2年(848年)、 黄檗 希運が万 福寺 にて出家得度。
- 即非如一
- 黄檗 派( 黄檗 宗)の僧。俗姓は林氏。字は即非。福建省福州府福清県の出身。 父は林英、母は万氏。林氏は南宋の中書舎人の林希逸の末裔を名乗っていた。 父を早くに失い、18歳の時に龍山寺の西来の許で出家し、費隠通容が 黄檗山 に晋住したため十戒を受けて沙弥となった。1637年中国福州 黄檗山萬福寺
- 木庵性瑫
- 黄檗山萬福寺 に入り、1664年9月4日、隠元の法席を継いだ。1665年江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。1669年、将軍より紫衣を賜った。 1680年2月、 黄檗山
- 普茶料理
- 化していき、見た目が鮮やかな独特のものとなっている。[要出典] 京都市伏見区にある 黄檗 宗寺院・海宝寺が普茶料理の開祖道場であり、 黄檗 宗の開祖・隠元隆琦ゆかりの京都府宇治市の 萬福寺 などの 黄檗 系寺院で供されるほか、興 福寺 がある長崎市には、普茶料理が食べられる寺院がある。また、普茶料理専門の飲食店が神戸
- 鉄牛道機
- 元禄13年8月20日(1700年10月2日))は、江戸時代前期の 黄檗 宗の禅僧。号は自牧子。諡号は大慈普応国師。長門生まれ(石見とする異説もある)。 因幡国の龍峯寺(鳥取県鳥取市)で修行後、1655年(明暦元年)長崎に滞在していた隠元隆琦に参禅し、 萬福寺 創建に従事した。ついで隠元の高弟木庵性瑫に師事。1659
企業データ
PAGE TOP