智恵光院
基本情報
- 所在地
- 〒602-8208
京都府京都市上京区智恵光院通一条上る智恵光院前之町601
- TEL / FAX
-
075-441-5920
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京都市烏丸線 今出川 1260m
- 京福北野線 北野白梅町 1390m
- 京都市烏丸線 鞍馬口 1670m
- 周辺情報
- ライフ西陣店 ライフ
- 一条通 道路名
- 京都市立正親小学校 小学
- ユニクロ西陣店 大型専門店(衣料品)
- ダックス上京智恵光院店 ドラッグストア
- 浄福寺幼稚園 幼稚園
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- 智恵光院通
- 智恵光院 通(ちえこういんどおり)は京都市内の南北の通りの一つ。北は北大路通の大徳寺門前から南は竹屋町通の二条城の北の堀端まで、大宮通と千本通の間を走る。途中、寺之内通と丸太町通で鍵の手に折れる。また、下立売通の南方で約25~30m間 北西⇔南東に遷移する区間がある。南の延長線上、御池通から南に矢城通、さらに南に壬生川通(壬生通)がある。
- 上京区
- 千本中立売交番(上京区中立売通千本西入亀屋町) 今出川大宮交番(上京区今出川通大宮角観世町) 大宮頭交番(上京区大宮通寺之内上ル2丁目仲之町) 下立売交番(上京区下立売通 智恵光院 角中村町) 室町中立売交番(上京区中立売通室町東入東町) 上御霊前交番(上京区烏丸通上御霊前下ル相国寺門前町) 出町交番(上京区河原町通今出川上ル青龍町)
- 鷹司兼平
- 正応3年(1290年)出家し、覚理と号する。永仁2年(1294年)に 智恵光院 を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念 院 関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念 院 殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。
- 丸太町通
- 通と同様に4車線ギリギリの幅員しかなく、右折レーンのない主要交差点も多いことから朝・夕のラッシュ時には渋滞が頻繁に起こる。 丸太町松屋町から丸太町 智恵光院 の間で斜行している部分は、明治時代末の京都市三大事業により拡幅された部分にあたる。このとき、千本通・東大路通間が拡幅され、京都市電丸太町線の敷設と
- 京都市電丸太町線
- 丸太町新道 川端丸太町/川端通 河原町丸太町/河原町通 裁判所前/柳馬場通 烏丸丸太町/烏丸通 府庁前/釜座通 堀川丸太町/堀川通 丸太町 智恵光院 / 智恵光院 通 千本丸太町/千本通 丸太町七本松/七本松通 丸太町御前通/御前通 円町/西大路通(当時山陰本線円町駅は未開業) 錦林車庫開設まで、川端丸太町にあった引込線で操車を行っていた。
- 出水通
- 出水通(でみずどおり)は、京都市の東西の通りの一つである。烏丸通から西へ、途中京都府庁で中断して七本松通までである。市街地中心部を通り、東側では公共機関、西側では寺院が多い。 智恵光院 通から七本松通までの間、出水通の一筋南・下立売通の一筋北にある比較的新しい、短い通りを新出水通(しんでみずどおり)と呼ぶ。 京都御苑 益富地学会館
- 京都市内の通り
- 市街地周辺部の街路も土地区画整理事業とともに、この時期から整備されていった。 第二次世界大戦時には防火を目的に強制的に建物疎開が行われた。高辻通、 智恵光院 通等において消防道路の敷設のため、また御池通・五条通・堀川通などに沿って大幅な防火帯の形成のために建物疎開が行われ、戦後の道路拡幅に用いられることになった。
- 八条院領
- 八条 院 領(はちじょういん-りょう)は、中世の荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。 院 御所鳥羽殿東殿の仏堂の後身の安楽寿院領を中心に鳥羽 院 領と美福門院領を相続した八条 院 暲子内親王の所領を起源とする。安楽寿院領48箇所のほか、八条 院 庁領79箇所、さらに歓喜 光院 領26箇所、蓮華心 院 領15箇所、真如 院
- 聚楽第
- 2012年(平成24年)には、京都府警西陣待機宿舎( 智恵光 通上長者町下ル東側)の建て替え工事の際に、本丸南堀北側の石垣の基部(東西間の約32メートル)が検出された。 聚楽第の破却に際し、建物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃 院
- 天明の大火
- が疑われ、実際の死者は1800はあったとする説もある。 光 格天皇は御所が再建されるまでの3年間、聖護院を行宮(仮御所)とし、恭礼門 院 は妙法院、後桜町上皇は青蓮 院 (粟田御所)にそれぞれ移った。後桜町 院 の生母青綺門 院 の仮御所となった知恩 院 と青蓮 院 の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
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