五劫院
基本情報
- 所在地
- 〒602-8359
京都府京都市上京区出水通七本松東入七番町348
- TEL / FAX
-
075-801-3927
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR山陰本線 円町 930m
- 京都市東西線 二条 1060m
- 京福北野線 北野白梅町 1070m
- JR山陰本線 二条 1180m
ウィキペディア検索
- 五劫院
- 五劫院 (ごこういん)は、奈良県奈良市北御門町にある華厳宗の寺院。東大寺末。山号は思惟山。拝観は予約制。 重源 - 中国から将来した 五劫 思惟阿弥陀仏像(本尊)を安置した一寺が始まりとされる。 木造 五劫 思惟阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財) - 螺髪が長く伸びた独特の造形がなされている。毎年8月初めに開扉される。
- 奈良きたまち
- 北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと) - 東之阪町。 鎌倉時代の僧が造営したと伝える治療 院 。江戸前期に現在地に移転、修築。 見返り地蔵 - 北御門町。 五劫院 の中にある。 五劫院 (ごこういん) - 北御門町。 重要文化財の 五劫 思惟阿弥陀如来坐像で知られる。 細田家住宅 - 雑司町。 奈良一古い農家。 河瀬家
- 公慶
- 身は大仏殿の落慶を見ることはなく、宝永2年(1705年)に江戸で痢病で客死した。遺骸は奈良へ運ばれ、東大寺の北にあり、東大寺復興の先人重源が建てた 五劫院 に埋葬された。 大仏殿の落慶が成ったのは宝永6年(1709年)、公慶が没してのち4年目のことであった。現在の東大寺に見られる大仏殿はこのときのもの
- 阿弥陀如来
- 『仏説無量寿経』 一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための 五劫 思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。ま
- 奈良市立鼓阪小学校
- 北御門小学校の校舎である 五劫院 の老朽化・狭さを憂いた奈良県第1大区第1小区の有志は新学校を求める活動を行った。活動が実を結び、1878年7月5日、東大寺惣持 院 の建物・建具・庭石などの一切を東大寺から譲受する契約書が交わされた。契約成立後、北御門小学校は直ちに移転を開始し、東大寺惣持 院
- 東大寺
- 木造公慶上人坐像(公慶堂安置) 木造 五劫 思惟阿弥陀坐像(勧進所阿弥陀堂安置) 銅造釈迦・多宝如来坐像(戒壇 院 ) 厨子入木造千手観音・四天王立像(戒壇 院 千手堂安置) 附 旧厨子後板及扉 7面 木造鑑真和上坐像(戒壇 院 千手堂安置) 木造愛染明王坐像(戒壇 院 千手堂安置) 木造菩薩立像(中性 院 所在) 木造地蔵菩薩立像(真言 院 所在)
- 金戒光明寺
- 院 熊谷堂と改称した。 永運 院 - 御影堂の西にある塔頭。普段は非公開だが、申し込めばイベント等で使用することができる。 西翁 院 - 永運 院 の西にある塔頭。 常光 院 - 通称「八はしでら」。 金光 院 松樹 院 勢至 院 浄源 院 善教 院 光安寺 超覚 院 西住院 瑞泉 院 長安 院 龍光 院 顕岑 院 栄摂 院 西雲院
- 九品仏浄真寺
- に挙行されたが、2017年は5月5日に変更された。 史跡 奥沢城跡 有形文化財(建造物) 仁王門 三仏堂 有形文化財(彫刻) 乾漆珂碩上人倚像 木造 五劫 思惟阿弥陀如来坐像 その他 かつてはサギソウ園があったが、駐車場の拡張によりなくなった。サギソウは本堂脇の片隅に僅かに残っている。 加藤家墓 加藤楸邨句碑
- 奈良県の重要文化財一覧
- 木造勢至菩薩立像 西方寺 奈良市油阪東町 木造阿弥陀如来坐像 西光 院 奈良市高御門町 木造十一面観音立像 南市町自治会 奈良市南市町 絹本著色春日宮曼荼羅図 不空 院 奈良市高畑町 木造不空羂索観音坐像 五劫院 奈良市北御門町 木造 五劫 思惟阿弥陀坐像 西福寺 奈良市奈良阪町 木造阿弥陀如来立像 木造薬師如来坐像
- 愛知県指定文化財一覧
- 西光寺木造地蔵菩薩立像 〔津島市〕 明安寺木造仏頭 〔津島市〕 附 仏像残欠 弥勒寺銅造阿弥陀如来坐像 〔弥富市〕 高田寺木造大黒天立像 〔北名古屋市〕 平田寺木造 五劫 思惟弥陀坐像 〔北名古屋市〕 全昌寺鋳鉄地蔵菩薩立像 〔北名古屋市〕 聖徳寺木造聖徳太子立像 〔名古屋市熱田区〕 観聴寺鋳鉄地蔵菩薩立像 2躯 〔名古屋市熱田区〕
企業データ
PAGE TOP