高台寺
基本情報
- 所在地
- 〒605-0825
京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526
- TEL / FAX
-
075-561-9966
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京阪本線 祇園四条 1000m
- 京都市東西線 東山 1100m
- 京都市東西線 蹴上 1210m
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- 高台寺
- 高台寺 (髙臺寺、こうだいじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)。本尊は釈迦如来。寺号は詳しくは 高台 寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である 高台
- 高台院
- 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、 高台 院屋敷にて死去。享年76(77、83の諸説があり。)なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。 墓所は京都市東山区の 高台寺 。遺骨は 高台寺 霊屋の 高台 院木像の下に安置されている。
- 御陵衛士
- 御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織。 高台寺 党とも( 高台寺 塔頭の月真院を屯所としたため)。 慶応3年3月10日(1867年4月14日)に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌寺塔頭・戒光寺の長老で
- 伊東甲子太郎
- きねたろう、天保5年12月3日〈1835年1月1日〉- 慶応3年11月18日〈1867年12月13日〉)は、幕末の新選組参謀、文学師範、御陵衛士( 高台寺 党)盟主。 名前の読みについては、同時代の史料に「樫次郎」と表記されたものがあることから、「かしたろう」とされるが、「きねたろう」とする説もある。
- 木下家定
- 慶長13年(1608年)8月26日、家定は死去した。享年66。臨済宗建仁寺塔頭常光院に葬られたが、 高台寺 にも 高台 院が築いた供養墓がある。菩提寺の常光院には、晩年の家定を描いた肖像画が残っている。 没後、家康は家定の遺領を勝俊と利房に分割相続させようとしたが、 高台 院が遺領を勝俊にすべて与えるよう浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出たた
- 圓徳院
- 高台院は没するまでの19年間を 高台 院屋敷と 高台寺 で過ごすと、寛永元年(1624年)9月6日に屋敷で亡くなった。 寛永9年(1632年)、 高台 院屋敷は木下利房によって 高台寺 の三江紹益を開山として 高台寺 の塔頭・圓徳院に改められた。以降は木下家の菩提寺となった。 寛政元年(1789年)2月9日、 高台寺
- 阿羅漢
- 相国寺(京都府京都市、陸信忠作) 久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町) ボストン美術館(米国、伊藤若冲作) らかん児童公園(岩手県盛岡市) 十六羅漢岩 (山形県遊佐町) 十六羅漢図 高台寺 (京都府京都市) 十八羅漢像 萬福寺(京都府宇治市) 總持寺(神奈川県横浜市鶴見区:重要文化財) 五百羅漢像 報恩寺(岩手県盛岡市) 五百羅漢(岩手県遠野市)
- 木下利房
- こうした実績から、元和元年(1615年)、備中の賀陽郡・上房郡の2郡で2万5,000石の知行を拝領し、木下氏は足守藩主として復活した。なお、利房の法号の圓徳院は、そのまま 高台寺 の塔頭の名前に使われている。 寛永3年、徳川秀忠の上洛に供奉して、9月3日の参代にも扈従した。 寛永14年(1637年)6月21日に没す。享年65。法名は半湖休鷗。
- 藤堂平助
- 藤堂 平助(とうどう へいすけ)は、日本の幕末の武士、剣客、砲術家で、新選組八番隊組長、のち御陵衛士( 高台寺 党)。 平助は通称で、諱は宜虎(よしとら、のぶとら)。正式な姓名は藤堂平助宜虎となる。 1844年(天保15年、弘化元年)、武蔵国にて誕生した後、江戸で育ったとみられる。
- 木下勝俊
- 、大坂の陣で徳川方として参戦して軍功を挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩の継承を認められている。 勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、 高台 院が開いた 高台寺 の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣があり、その2階には三十六歌仙図を掲げた。
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