敏馬神社
基本情報
- 所在地
- 〒657-0845
兵庫県神戸市灘区岩屋中町4丁目1-8
- TEL / FAX
-
078-861-2091
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 神社
- コメント
- 最寄り駅
- 阪神本線 岩屋 80m
- JR神戸線 灘 340m
- 阪神本線 西灘 570m
- 周辺情報
- BBプラザ ショッピングセンター・モール、複合商業施設
- 岩屋駅(阪神) 駅(他社線)
- HAT神戸灘の浜1番館2番館 ショッピングセンター・モール、複合商業施設
- 岩屋街園 都市緑地・緑道
- グルメシティ摩耶海岸通店 その他のスーパーマーケット
- 敏馬エコ・ステーション エコステーション
- コスモ石油セルフ敏馬 コスモ石油
- ロイヤルホスト摩耶店 ロイヤルホスト
- 源ぺいJR灘駅前店 その他のファミリーレストラン
- セブンイレブン神戸灘岩屋駅前店 セブン-イレブン
- サンクス阪神岩屋駅前店 サンクス
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- ファミリーマートJR灘駅前店 ファミリーマート
- 神戸市立青陽東養護学校 特別支援学校
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- 敏馬神社
- 敏馬神社 、 敏馬神社 (みぬめじんじゃ)は、神戸市灘区岩屋中町にある 神社 。式内社で、旧社格は県社。 国道2号と 国道43号が東から西へ1本に重なる道路に北接する丘の上に鎮座する。阪神電鉄 岩屋駅の南東約150m。 敏馬 は、古く、汶売、美奴売、三犬女、見宿女等の文字で書かれることもあった。
- 岩屋中町
- 四丁目には延喜式内社汶売(みるめ)社として知られる 敏馬神社 とその神宮寺だった龍泉寺がある。 住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、岩屋中町2-4-1の地点で18万3000円/m2となっている。 商工業 島田文一郎(島文商店、鉄輸入商) 宗教 敏馬神社 宝林寺 ^ “国勢調査による町別、年齢別人口及び世帯数”
- 岩屋 (神戸市)
- 石であるという。それが「岩屋」となったのには斎場を表す「斎屋(いつきや)」が御崎の岩場にあったからといわれる。これが 敏馬神社 と関係するのかどうかは不明である。 福原会下山人はまた、 敏馬 の森が古墳だった(岩で家をこしらえた)から岩屋になったとも唱えている。 旧字名に島田、屋形、浜屋形、濱田、前浜、寺内
- 岩屋駅 (兵庫県)
- の乗り場ではない)、駅北側すぐの道路から(頻繁に通過している。本来はこちらの方の利用を推奨)、手を上げて利用する。 阪神バス 西宮神戸線 敏馬 停留所または 敏馬神社 前停留所(ともに国道2号上):阪神西宮/神戸税関前 行 神戸市バス 100系統 阪神岩屋停留所(駅南側):HAT神戸方面/六甲道駅行き みなと観光バス
- 脇浜町
- 神社 、神戸脇浜郵便局、みのり保育園、脇浜西公園、神戸市環境局中央事業所および関西電力葺合変電所が、三丁目には日本香料薬品、住友ゴム工業本社および春日野道商店街がある。 「脇浜(わきのはま)」という地名の由来は 敏馬神社 のある 敏馬 浦・ 敏馬 崎の脇の浜によるという。
- 三草山
- たので、船上にて占いを行ったところ、これは美奴売山の神の意志であるとわかったという。そこで、その場に美奴売神を祀ったのが、現在も神戸市灘区内に残る 敏馬神社 であるという。また、後代の研究や史料によれば、この美奴売山こそが、現在の三草山であるという。なお、『摂津国風土記』は、現存していないが「美奴賣松原
- 生田神社
- る。碑には、『延喜式』「玄蕃寮」の記載において、新羅からの使節を「 敏馬 浦」でもてなす際に、生田 神社 ・廣田 神社 ・長田 神社 および大和国の片岡 神社 から稲を持ち寄り、生田 神社 で醸造した新酒を用いることが定められた由緒が記されている。 戸隠 神社 祭神:手力男命 説明:身体健全・筋力増進・大力の神 生田森坐社 祭神:神功皇后
- 脇浜海岸通
- 戸として再開発が進められた際に住居表示が実施され一~四丁目および、丁目のない部分とに分かれた。 「脇浜(わきのはま)」という地名の由来は 敏馬神社 のある 敏馬 浦・ 敏馬 崎の脇の浜であることによるという。同地は江戸時代には脇浜村と呼ばれ、明治初期に葺合村の一部となり、その後神戸の一部となった。明治40年(
- 会下山
- 会下山の西南に雄伴郡(おともぐん)の郡衙(郡家)があり、北風家の先祖が郡司をしていたという。また、北風家の先祖がかつて仕えていた神功皇后の手形を祀る比売神( 敏馬神社 より勧請?)の社と内実は北風家祖を祀った社であったが、公的には北風家の女系の祖先神である天児屋根命を祭神とした春日社の二社を祀っていたとされる。し
- 北風家
- 44代白藤惟村が一門(当時支流だけで21家)を引き連れて南朝後醍醐天皇方に加勢し、1336年北風の強い日、家伝によると、わざわざ敵前を兵庫から東の 敏馬 (みぬめ)まで船で漕ぎ渡り、 敏馬神社 に参拝の後、取って返して、兵庫の浦で足利尊氏の軍船の大半を焼いた。尊氏の姿が見えるほど肉薄したが、もう少しのところでその船を取り逃がす。
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