応其寺
基本情報
- 所在地
- 〒648-0064
和歌山県橋本市橋本2丁目3-4
- TEL / FAX
-
0736-32-0218
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 応其寺
- オープンストリートマップに 応其寺 の地図があります。 応其寺 (應 其寺 、おうごじ)は、和歌山県橋本市橋本にある高野山真言宗の寺院。山号を中興山、本尊は救世観世音菩薩、開基は同地を開発した僧侶、木食 応其 である。 紀伊続風土記二によれば、橋本町は 応其 が秀吉から古佐田村の一部を免許地として与えられ、開いたのが
- 木食応其
- 木食 応其 (もくじき おうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した。法名(法諱)を 応其 (應 其 )、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊 応其
- 橋本市
- 杉村公園 飛び越え石 わらん谷の赤石 利生護国寺(利生護国寺本堂:重要文化財) 子安地蔵 寺 (紀州徳川家安産祈願 寺 、関西花の 寺 24番「ふじの 寺 」) 応其寺 (木食 応其 が定住した高野山真言宗の寺院) 小峯 寺 学文路苅萱堂 定福 寺 隅田八幡神社(隅田八幡神社人物画像鏡:国宝) 相賀八幡神社 相賀大神社 国城神社(橋本市が一望できる絶景スポット)
- 興山寺
- 和歌山県立博物館編 『特別展「没後四〇〇年 木食 応其 ―秀吉から高野山を救った僧―」』 和歌山県立博物館、2008年。 ^ 福井文雄 「木食上人の生涯とその事蹟」 興山寺(私家版)、1970年。 水原堯栄 「木食興山 応其 上人―安楽川興山寺を尋ねて橋本郷應 其寺 に詣ず―」 『Koyasanパンフレット』 no
- 紀州征伐
- 応 じている(久米田の戦い、教興寺の戦い、野田城・福島城の戦いなど参照)。 ^ 岩室城の落城日時は不明である。 ^ 『戦国合戦大事典』p.329 ^ 根来寺への使者を務めたことから(「和泉の戦い」の項参照)、 応其 と秀吉の間には紀州攻め実行以前からつながりがあったことが推測される(『木食 応其 』p.190)。
- 東家渡場大常夜燈籠
- は新しく開かれた、御幸辻から南下して当地に至り、紀の川を渡って学文路(かむろ)経由で高野山に至る道が主流となった。 天正15年(1587年)には木食 応其 によって、橋本の名の由来にもなる橋がかけられたが、3年後には増水により流失している。 その後は舟での横渡が行われるようになり、川北岸渡場にこの大常夜燈籠が建てられた。
- 橋本駅 (和歌山県)
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- 興山寺 (廃寺)
- 寺 名は、高野山の「中興開山」から来ている。行人方の役 寺 で、文殊院とも号した。本尊は阿弥陀如来。 天正18年(1590年)、木食 応其 が豊臣秀吉の帰依を受けて開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請し「興山寺」の勅額が掲げられて、国家安泰などを祈る勅願 寺 となった。 応其 は客僧であったが、当 寺
- 青巌寺
- 寺 は豊臣秀吉が大願主となり、母大政所の追善のために木食 応其 に命じて造営された。初め「剃髪 寺 」と号した。同年8月4日の豊臣秀吉朱印状によれば、造営料として一万石、ほかに高野山に一万石、うち三千石を剃髪 寺 仏供灯明ならびに寺僧請賄料として寄進している。文禄2年(1593年)7月22日に剃髪 寺
- 大政所
- 寺 (後の青巌 寺 だが万延元年に焼失)を創立して木食 応其 を開基とした。また高野山には1万石が寄進された。秀吉は8月6日に大徳寺で法要を行い、翌日、蓮台野で荼毘に付した。後陽成天皇は、勅使を遣わして仲に准三后を追号した。 墓所は大徳寺内天瑞 寺 、高野山青巌 寺 、山科本国 寺 にある。遺骨は天瑞 寺
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