興福院
基本情報
- 所在地
- 〒630-8113
奈良県奈良市法蓮町881
- TEL / FAX
-
0742-22-2890
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 興福院
- 興福院 (こんぶいん)は、奈良県奈良市法蓮町にある浄土宗の寺院(尼寺)。山号は法蓮山。本尊は阿弥陀三尊。開基は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。 興福院 の創建については複数の説があり、中世以前の沿革はあまり明らかでない。 当 院 はもともと添上郡 興福院 村(平城京の右京四条二坊、現・近鉄尼ヶ辻駅の近く
- 鷹山氏
- 興福院 に残る文書群は貴重となる。 この文書群に含まれる「鷹山氏系図写」によると、鷹山頼茂の従姉妹の春心尼は弘文 院 ( 興福院 )の住持・自慶 院 (秋篠氏の娘)の姪で、自慶 院 の弟子となって弘文 院 に入寺した。妹の光心尼も弘文 院 に入って住持となり、三代将軍・徳川家光から新たな知行地と 興福院 の寺号を賜り、弘文 院
- 興福院 (柏市)
- 興福院 (こうふくいん)は、千葉県柏市にある真言宗豊山派の寺院。 大同年間(806年 - 810年)に開山された。その後、1263年(弘長5年)に澄尊によって中興された。その際に「無薬院」から「 興福院 」に改称した。 1579年(天正7年)、手賀城の城主原胤親は当 院
- 脇侍
- 中尊を坐像、脇侍を半跏踏み下げ像とするもの - 奈良・長岳寺阿弥陀三尊像、奈良・ 興福院 阿弥陀三尊像など 中尊を坐像、脇侍を跪坐像とするもの - 来迎形の阿弥陀三尊像がこの形をとる場合がある。京都・三千 院 阿弥陀三尊像など 文殊菩薩五尊 - 獅子に乗った文殊菩薩の周囲に優填王、善財童子、大聖老人(最勝老人)、仏陀波利三蔵(中国語:
- 添下郡
- 九条村が郡山町の一部(何和町・平野町)を合併。 明治20年(1887年)11月4日 - 奈良県(第2次)の管轄となる。 明治21年(1888年) - 興福院 村・斎音寺村が合併して尼辻村となる。(1町60村) 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(1町8村) 郡山町
- 奈良市
- (中辻町) 八王子社 南都七大寺のうち6寺院が市内に所在。 興福 寺 東大寺(奈良の大仏) 正倉 院 西大寺 薬師寺 元興寺 大安寺 新薬師寺 霊山寺 帯解寺 唐招提寺 伝香寺 秋篠寺 十輪院 法華寺 海龍王寺 不退寺 般若寺 圓成寺 圓照寺 興福院 白毫寺 弘仁寺 正暦寺 称名寺 南明寺 璉珹寺 宝珠寺
- 公慶
- 日本史小辞典. コトバンクより2023年7月13日閲覧。 ^ a b 「公慶上人年譜」(東大寺文書)及び「鷹山氏系図」( 興福院 文書)に同様の記述がある(野田泰三「鷹山氏と 興福院 文書」、大和を歩く会編『シリーズ歩く大和I 古代中世史の探求』法藏館、2007年、358、383-384頁。ISBN 978-4-8318-7567-9)。
- 尼ヶ辻駅
- ある、近畿日本鉄道(近鉄)橿原線の駅。駅番号はB27。 かつて、江戸時代に将軍の徳川家綱の寄進によって法蓮村(現在の奈良市法蓮町)へ移転した尼寺「 興福院 」があり、平城京の「三条大路」と「西一坊大路」が交差する「辻」(現在の三条大路5丁目交差点)付近があったことから、当駅周辺が「尼ケ辻」という地名となっていたことに由来する駅名である。
- 興福寺 (常熟市)
- 唐の咸通9年(868年)、懿宗から、「 興福 禅寺」の名を賜った。 1949年以降、地方政府は何度も寺院を重修した。最近の修復作業は1985年。1983年、中華人民共和国国務 院 は仏寺を漢族地区仏教全国重点寺院に認定した。 山門、天王殿、大雄宝殿、観音殿、鐘楼、鼓楼、祖師殿(開山堂)、法堂、華厳塔、 興福 寺塔
- 鷹山弘頼
- 永正14年(1517年)、鷹山頼慶の子として生まれる。 鷹山氏は大和国の北西端に位置する添下郡鷹山荘(現在の奈良県生駒市高山町)を本拠とした国人で、 興福 寺一乗 院 方の衆徒。応永27年(1420年)には鷹山荘の下司となっており、15世紀中頃の鷹山奥頼弘は官符衆徒の地位を得ていた。応仁の乱では越智党として畠山
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