青蓮院
基本情報
- 所在地
- 〒710-0824
岡山県倉敷市白楽町633
- TEL / FAX
-
086-422-3934
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院,宗教団体
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- 青蓮院
- 青蓮 坊を祈願所とした。このため、この頃から寺格が上がり始めた。その上、鳥羽上皇は第7皇子の覚快法親王を行玄の弟子として入寺させている。これ以降、当 院 は門跡寺院となり皇族や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。 青蓮 坊は 院 の御所に準じて都に殿舎を造営し、 青蓮院
- 久邇宮朝彦親王
- 年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗 院 の門主となる。嘉永5年(1852年)、 青蓮院 門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。 青蓮院 が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様 青蓮院 宮(しょうれんいんのみや)または粟田宮(あわたのみや)と呼ばれた
- 門跡
- 院 (梨本・梶井)、後者は 青蓮院 を拠点とし、前者には堀河天皇の皇子である最雲法親王、後者には鳥羽天皇の皇子である覚快法親王、次いで摂関家出身の慈円が入ったことで格式を高めて門跡寺院となった。なお、一般には明快を梨本門跡の祖、行玄を 青蓮院 門跡の祖とみなされているが、梨本・ 青蓮院
- 尊円法親王
- 金沢文庫切(巻子万葉集切) 巻物切(古今和歌集) 経切 入木抄 鷹手本(西本願寺所蔵、重要文化財) 門葉記(原本は 青 連 院 、奈良国立博物館所蔵、重要文化財)、など。 ^ 青蓮院 の基礎資料『門葉記』や『華頂要略』、明治期の宝物調書『古器物目録』『宝物調書』(東京国立博物館蔵)に本像の名を見出せない
- 蓮如
- 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、 蓮 淳など。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、 青蓮院 の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本
- 3月7日
- 東山の団栗辻子から出火し、2日間にわたって京都市街を焼き尽くした京都最大の火災。3万7000軒の家屋が焼失し、御所や二条城、東西の本願寺も焼失。後桜町上皇は 青蓮院 を仮御所として避難される。 1866年(慶応2年1月21日) - 薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。 1873年 - 神武天皇即位日を「紀元節」と称することを決定。
- 尊円流
- 尊円流(そんえんりゅう)は、尊円法親王が興した書の流派(書流)である。 青蓮院 流(しょうれんいんりゅう)、御家流(おいえりゅう)、粟田流(あわたりゅう)とも呼ばれる。 後述のように派生流派が多く、一見隆盛を極めている流派のように見えるが、とくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流
- 道覚法親王
- 青蓮院 門跡を道覚に譲る予定であったが、承久の乱で後鳥羽 院 が隠岐に流されると、1221年(承久3年)に 青蓮院 を退出せざるを得なかった。 1247年(宝治元年)に天台座主となり、翌1248年(宝治2年)に後嵯峨上皇の院宣によって 青蓮院 門跡を引き継いでいる。しかし、 青蓮院
- 慈円
- 白・九条兼実、太政大臣・藤原兼房は同母兄にあたる。 幼いときに 青蓮院 に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた 青蓮院 を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円
- 慈道法親王
- 青 竜 院 ・十楽 院 。 1295年(永仁3年) 青蓮院 に入り、同年親王宣下を受けた。その後法住寺座主・ 青蓮院 門跡となり、1314年(正和3年)以後は3度天台座主に任じられている。またその間四天王寺別当をも務めている。当時、 青蓮院
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