長禄寺
基本情報
- 所在地
- 〒962-0856
福島県須賀川市北町3
- TEL / FAX
-
0248-73-3290
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 長禄寺
- 長禄寺 (ちょうろくじ)は、室町時代の 長禄 元年(1457年)に創建された、福島県須賀川市北町にある曹洞宗の寺院。開山は月窓明潭で、開山を同じくする新潟県の観音寺や、付近の長松院などの本寺である。創建された年号にちなんで命名された。 室町時代の 長禄 元年、須賀川城主の二階堂為氏が、二階堂氏一族の菩提寺とし
- 須賀川城
- 王山城に陣すると、これを先導して須田氏、佐竹氏らの兵・約600人の守る当城は攻め落とされた(須賀川城攻防戦)。 この際に釈迦堂川南岸で激戦があり、 長禄寺 が放火されて本丸まで延焼している。城主の大乗院は佐竹家へ落ち延び、政宗は一族の石川昭光に須賀川城を与えた。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀
- 長禄・寛正の飢饉
- 長禄 ・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、 長禄 3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』に史料が豊富に残る。 長禄 3年は全国的な旱魃に加えて、関東地方の享徳の乱、畿内の台風などによって西日本を中心に飢饉が発生、翌年
- 阿南姫
- 慶長7年(1602年)、佐竹家の羽州秋田転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川に帰りこの地で病に罹り死去。享年62。戒名は大乗院殿法岸秀蓮大姉。墓所は須賀川の 長禄寺 。 ^ 戸谷穂高「沼尻合戦」江田郁夫・簗瀬大輔 編『北関東の戦国時代』高志書院、2013年/所収:戸谷『東国の政治秩序と豊臣政権』吉川弘文館、2023年
- 二階堂氏
- 二階堂為氏(為藤、寿丸、盛重)(?年 - 1464年) … 次郎、遠江、茂山樹英、須賀川城主、『系図纂要』では行続(行嗣)の子、 長禄寺 所蔵「二階堂藤原系図」では行秋(筑前家・光貞の子)の孫、須賀川市普応寺の 寺 伝では式部大輔為治の子 二階堂行光(?年 - 1477年) … 山城、嘉山道教 二階堂行詮(宗続?)(?年 -
- 後花園天皇
- 寺 で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。 文安元年(1444年)2月、同母弟の伏見宮貞常親王に親王宣下を行い、文安4年(1447年)11月に父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の五世の孫にあたる木 寺 宮邦康王に親王宣下を行った。 長禄
- 一条教房
- 長禄 2年(1458年) 12月5日:関白氏長者 長禄 3年(1459年) 正月5日:従一位。12月18日:辞左大臣 寛正4年(1463年) 4月:辞関白氏長者 応仁2年(1468年) 9月16日:下向土州 文明12年(1480年) 10月5日:薨去 『系図纂要』による。 父:一条兼良 母:小林 寺 殿(中御門宣俊の娘)
- 足利義政
- それが原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前で 長禄 合戦を引き起こした。義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前守護代であった常治の反乱の鎮圧を行ったため、義政は抗命を理由に斯波氏の当主交代を行い、義敏の子・松王丸(義寛)へ当主を交代させた。 長禄 合戦は常治が勝利したが、直後に常治も没し、関東派遣は見送られた。
- 従一位
- 1458年( 長禄 2年)9月11日 近衛教基 1459年( 長禄 3年)1月5日 一条教房 1459年( 長禄 3年)1月5日 正親町三条実雅 1459年( 長禄 3年)1月5日 中御門明豊 1459年( 長禄 3年)11月1日 四条隆盛 1459年( 長禄 3年)11月27日 正親町時季 1459年( 長禄 3年)12月3日
- 朝倉孝景 (7代当主)
- 長禄 2年(1458年)に始まった義敏と越前守護代甲斐常治の合戦( 長禄 合戦)では守護代側に与し、その主力として活躍する。その後、義敏と常治は幕府が間に入って和睦の話し合いがもたれたが、義敏の反対で成立しなかった。それにより義敏に反感を持った孝景は 長禄 3年(1459年)に「敏」の字を棄てて再び教景に名を戻している。
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