咸宜園
基本情報
- 所在地
- 〒877-0012
大分県日田市淡窓2丁目2-18
- TEL / FAX
-
0973-22-0268
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 市区町村機関,学術文化団体,学術団体,文化団体
- コメント
- 最寄り駅
- JR久大本線 日田 720m
- JR久大本線 光岡 1530m
- JR久大本線 豊後三芳 2420m
- 周辺情報
- 日田市立咸宜小学校 小学
- 鶴陽会岩尾病院 病院(動物は除く)
- 咸宜会日田中央病院 病院(動物は除く)
- 文化書房 書店
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- 咸宜園
- 咸宜園 (かんぎえん)は、江戸時代の先哲・広瀬淡窓により、幕府領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾である。「 咸宜 」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。塾生の意志や個性を尊重する理念が込められている。 咸宜園
- 広瀬淡窓
- 咸宜園 の前身となった塾を開いた。講義を行っていた学寮は1943年に解体撤去され、学寮跡地には旧日田愛育 園 (現在の月隈こども 園 )の 園 舎が建てられた。2012年10月に行なわれた旧 園 舎保存工事に伴う発掘調査において、学寮の礎石が確認されている。 咸宜園 (かんぎえん)
- 松田道之
- 鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれる。はじめ藩医木下主計に養われ、のち松田市太夫の嗣子となる。藩校尚徳館と 咸宜園 に学び、幕末は尊皇攘夷運動に傾倒していた。明治維新後に内務官僚となり、明治2年(1869年)京都府大参事、明治4年(1871年)大津県令、翌年は滋
- 長三洲
- 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の 咸宜園 の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人と
- 日田市
- - 江戸時代中期からの町家が残る町並み 広瀬淡窓旧宅(国史跡) 長生 園 (国史跡・廣瀬家墓地) 草野家住宅(国重文) 日本丸館(国登録有形文化財・岩尾薬局) 天領日田資料館 薫長酒蔵資料館(クンチョウ酒造) 中城河岸跡(港町) 咸宜園 跡(国史跡・淡窓町) 隈・竹田地区 後藤家住宅(国登録有形文化財) 山田家住宅(国登録有形文化財)
- 上野彦馬
- 天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)(1790 - 1851)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、 咸宜園 で2年間学び、 咸宜園 を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に
- 広瀬氏
- 衛門貞昌は、1673年(延宝元年)に博多から天領であった豊後国日田(現在の大分県日田市)に移り、掛屋「堺屋」を開業。後に屋号を「博多屋」とした。 咸宜園 を開いた淡窓をはじめ、その子孫に、儒学者、俳人が多く出た。月化・桃秋(三郎右衛門の号)・淡窓・秋子・南陔(久兵衛の号)・旭荘・青邨・林外は、広瀬八
- 塩谷正義 (代官)
- 咸宜園 は広瀬淡窓による私塾であったが、正義は何度かこれを代官管轄の官学にしようと干渉を行った。淡窓はこれを官府の難と言って恐れ、淡窓自身が書いた『懐旧楼筆記』に「近年官府の災難頻り(しきり)に 起こり」と記している。最終的に淡窓は 咸宜園
- 広瀬旭荘
- 1825年(文政8) - 18歳。亀井塾を退き帰郷。病床の兄淡窓に代わって 咸宜園 の塾政となる 1828年(文政11) - 21歳。豊前浮殿(宇佐と豊後高田の境)に塾を開く 1830年(天保元) - 23歳。 咸宜園 を継ぐ 1831年(天保2) - 24歳。 咸宜園 に日田郡代塩谷大四郎の干渉があり塾生数の減少 1834年(天保5)
- 楼閣
- 閣」という。ほかに、祇園閣(1928年築、大雲院)がある。 聴秋閣(ちょうしゅうかく)(1623年築、神奈川県横浜市三渓 園 ) 遠思楼(えんしろう)(1817年築、大分県日田市 咸宜園 ) 栖鳳楼(せいほうろう) 平安京大内裏にあった四楼の1つ。森陣屋にある茶屋(1837年ごろ築、大分県玖珠町)
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