興証寺
基本情報
- 所在地
- 〒071-8122
北海道旭川市末広東2条3丁目1-12
- TEL / FAX
-
0166-51-1385
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR宗谷本線 新旭川 2460m
- JR石北本線 新旭川 2460m
- JR石北本線 南永山 2830m
- JR宗谷本線 永山 3820m
- 周辺情報
- 餃子の王将旭川末広店 餃子の王将
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- 願証寺
- 寺 は中郷杉江から長島城に近い南郷西外面付近へ移転した。 永禄3年(1560年)、3世 証 恵の代には、前年に本願寺第11世顕如が准門跡に補されたことに伴い、多数の本願寺一門衆に先駆けて、河内顕 証寺 、播磨本徳 寺 とともに、院家を勅許された。 願 証寺
- 蓮如
- 11男:実順(1494年 - 1518年) - 河内久宝寺西 証寺 12男:実孝(1495年 - 1553年) - 大和飯貝本善寺 14女:妙宗(1497年 - 1518年) - 京都常楽寺実乗光恵室 13男:実従(1498年 - 1564年) - 河内枚方順 興 寺 大阪府八尾市の顕 証寺
- 寺内町
- 金田(大阪府堺市北区) - 光念 寺 、佛源 寺 、長光寺、西光寺(真宗仏光寺派の寺内町) 富田(大阪府高槻市) - 教行 寺 貝塚(大阪府貝塚市) - 願泉寺 枚方(大阪府枚方市) - 順 興 寺 招提(大阪府枚方市) - 敬応寺 出口(大阪府枚方市) - 光善寺 久宝寺(大阪府八尾市) - 顕 証寺 、久宝寺御坊 八尾(大阪府八尾市)
- 久宝寺
- 律令制制定以降は、河内国渋川郡に属する。 中世・鎌倉時代になると、慈願 寺 が創建される。室町時代には安井氏の領地となる。戦国時代に本願寺第八世蓮如がこの地で布教活動を始め、西 証寺 (のちの顕 証寺 )を創建し、周囲に環濠をめぐらせて環濠集落・寺内町が形成された。
- 顕如
- から院家が指定されたため、ほぼ院家と同様である。 院家となった、本宗 寺 証 専・願 証寺 証 意・顕 証寺 証 淳・順 興 寺 実従・教行 寺 実誓・慈教 寺 実誓・常楽寺 証 賢 の他に、光教寺顕誓、願得 寺 実悟が、一家衆である。後に天正4年(1576年)、願得 寺 も院家に指定される。 下間氏は蓮如時代以後、代々本願寺の侍臣を務めて
- 長島一向一揆
- 一揆蜂起時 織田信 興 第一次長島侵攻時 氏家卜全 蜂須賀正元(正勝の弟) 第二次侵攻時 林通政 第三次侵攻時 小瀬清長 織田信次 織田信直 織田信広 織田信成 織田信昌 織田秀成 佐々松千代丸(佐々成政の長男) 佐治信方 平手久秀 山田勝盛 和田定利 証 意(佐玄、願 証寺 4世) 顕忍(佐尭、願 証寺 5世) 空明(香取法泉寺11世)
- 享禄・天文の乱
- 12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕 証寺 を攻め落とし、16日と17日は東山で一向一揆と合戦を行っている。続いて23日には、 証 如のいる山科本願寺を3万の大軍で包囲して、翌日24日に水落から寺内に攻め込んで山科本願寺は落ちた。 なお肝腎の蓮淳は顕 証寺 陥落の際に、もう一つの拠点であった伊勢長島願 証寺
- 法如
- の猶子。母は円成院(法寿)。妻は如教(誠心院)。第18世文如は長男。子は顕 証寺 住職闡教、法依。 播磨国亀山(現・兵庫県姫路市)の本徳 寺 第8代住職寂円(大谷昭尊)の次男として生まれる。得度の後、河内国顕 証寺 に入り寂峰として顕 証寺 第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝する。跡を継いだ弟の
- 広如
- 証寺 闡教(文如の弟)の娘。室は九条尚忠の養女・祥子(鷹司政煕息女、光輝院如順)。第21世明如(大谷光尊)は五男。 幕末には勤皇の旗幟を鮮明にし、明治時代以後の教団を方向付けた『御遺訓御書』を残している。 寛政10年(1798年)、河内国顕 証寺 住職文淳(近松暉宣)の次子に生まれる。一旦は顕 証寺
- 文如
- 詩歌、書、聲明などにも才覚を見せた。継職は46歳の時で、その後10年で命終したため宗主としては比較的短命であった。妹を嫁がせるなどして悪化していた 興 正 寺 との関係修復に苦心したほか、いわゆる三業惑乱をめぐる宗派内の混乱の対処に追われ、寛政11年(1799年)6月14日に解決を見ぬまま事件の最中に示寂した。享年56。本如が第19世となる。
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