観泉寺
基本情報
- 所在地
- 〒367-0012
埼玉県本庄市宮戸354
- TEL / FAX
-
0495-22-5739
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR高崎線 岡部 3760m
- 東武伊勢崎線 境町 4470m
- JR高崎線 本庄 4580m
- 周辺情報
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- 観泉寺
- 観泉寺 (かんせんじ)は、東京都杉並区今川二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は宝珠山。 戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺である。境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されている。 ほかに枝垂桜、紅葉などの名所としても知られている。 慶長2年(1597年)9月、中野にある成願寺の住職・鉄叟雄鷟によって、多摩郡下井草(上井草村八町
- 東条松平家
- に進納する内容と実名「義春」の署名・花押がある。但し、姓氏の記載はない。 ^ 観泉寺 史編纂刊行委員会編『今川氏と 観泉寺 』(吉川弘文館、1974年)547-548頁・所収文書、「岡崎城代山田隆景等連署血判起請文」(今川 観泉寺 文書)および同書の549-550頁の解釈文。 ^ 新井白石(原著)『新編 藩翰譜
- 松平義春
- 愛知県の地名』平凡社、1981年は「上青野村」の項にて『六ッ実村史』を引いて、来迎寺への埋葬は日近合戦で戦傷死した義春の遺命によるとしているが、 観泉寺 史編纂刊行委員会編『今川氏と 観泉寺 』吉川弘文館、1974年は「 観泉寺 今川文書」によって日近合戦で死んだのは義春の子忠茂とあるため、被葬者は松平忠茂の可能性がある。 法名、青厳顕松または貞巖顕松。
- 今川氏真
- 氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。 観泉寺 史編纂刊行委員会編『今川氏と 観泉寺 』には1,658首が収録されている。 氏真の少年時の文化的な環境から、駿河に下向していた権大納言・冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない。 『今川氏と 観泉寺
- 今川 (杉並区)
- (現:練馬区中村一帯)が知行地として与えられた。以後、この地域は幕末まで今川氏の所領であった。今川氏の菩提寺として庇護を受けた 観泉寺 は、その知行地支配の拠点でもあった。 観泉寺 境内には今川氏歴代当主の墓所(都旧跡)がある。 1889年(明治22年)の町村制施行により、東多摩郡井荻村の一部となった。18
- 松平家忠 (東条松平家)
- 9年(1581年)に病のため東条城で没した。 後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。 観泉寺 史編纂刊行委員会編『今川氏と 観泉寺 』吉川弘文館、1974年 新編岡崎市史編さん委員会編『新編岡崎市史 6 古代中世史料編』岡崎市、1983年 盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書304)角川出版、
- 今川直房
- また、姉(妹ともいう。大友義親の妻で、夫の死後剃髪)とともに、祖父氏真・母利正院の墓を自らの知行地である井草村の 観泉寺 (現:東京都杉並区今川)に移し、 観泉寺 の開基を氏真として今川家代々の菩提寺とした。直房は氏真の弟一月長得が修行した長延寺の開基となっており、高家今川家代々の当主は長延寺に葬られている。
- 萬昌院功運寺
- 松島栄一『忠臣蔵』(岩波書店、1964年)122p 長延寺 - 旧今川家菩提寺。萬昌院と開山(仏照円鑑禅師喚英長応)を同じくする。 観泉寺 - 杉並区にある寺院。 観泉寺 にも今川家の累代の墓地がある。 ウィキメディア・コモンズには、萬昌院功運寺に関連するカテゴリがあります。 龍寶山萬昌院功運寺・まこと幼稚園ホームページ
- 今川氏
- 江戸時代における今川氏の菩提寺は、杉並区今川の宝珠山 観泉寺 (曹洞宗)、杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)である。 観泉寺 にある今川氏累代の墓は東京都指定旧跡となっている。なお、 観泉寺 の住所である「今川」は、この地が今川家の知行地だったことにちなんでいる。
- 今川範主
- の養子として家督を継ぐ。次女は御小姓稲垣正庸(600石)の妻となった。 『寛政重修諸家譜』巻第九十四 観泉寺 史編纂刊行委員会編『今川氏と 観泉寺 』(吉川弘文館、1974年) ^ 『今川氏と 観泉寺 』p.75、「近世今川家歴代法号一覧表」。 ^ 家祖・国氏から数えた代数。 ^ 『今川氏と 観泉寺 』p.48
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