宥勝寺
基本情報
- 所在地
- 〒367-0032
埼玉県本庄市栗崎155
- TEL / FAX
-
0495-24-1290
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 宥勝寺
- 宥勝寺 (ゆうしょうじ)は、埼玉県本庄市栗崎にある真言宗智山派の寺院。山号は西光山。詳しくは西光山無量寿院 宥勝寺 と称する。本尊は不動明王。 寺 伝によると建仁2年(1202)有荘氏(後に本庄氏)により開創された。始め有道宿弥武承惟行五世の孫児玉党旗頭、有荘太郎家長の嫡子小太郎頼家が寿永3年(1184)一
- 不動明王
- 成田山新 勝寺 ^ 秋山学『呉音から西洋古典語へ : 第1部 印欧語文献としての弘法大師請来密教経典』、文藝言語研究. 言語篇 61巻、筑波大学文藝・言語学系、2012年3月、45頁。 ^ a b 頼富本宏『曼荼羅の鑑賞基礎知識』至文堂、1991年、95頁。 ^ 不動信仰事典 宮坂 宥勝 編集 p.297戎光祥出版
- 真言宗智山派
- 芙蓉良順(埼玉県勝蔵院住職、大正大学長) 上野頼栄(福島県いわき市常福 寺 住職) 小峰順誉(東京都西東京市総持寺住職) 藤井龍心 (京都市上京区清和院住職、種智院大学名誉教授) 高井隆秀(京都市北区上品蓮台寺住職、種智院大学名誉教授) 近藤隆敬(東京都大田区長福寺住職) 宮坂 宥勝 (長野県岡谷市照光寺、名古屋大名誉教授) 阿部龍文(東京都世田谷区満願寺住職)
- 大日如来
- 南壁に描かれた『盧遮那仏説法図』では、盧遮那仏像の胸あたりに須弥山が描かれ、その前にやはり月と太陽を手にした阿修羅像が現わされている」とある。 宮坂 宥勝 (高野山大学)は、 『マハーバーラタ』における第二の場合、すなわちVirocana、VairocanaとAsuraとの結合については仏教諸経典につい
- 本庄実忠
- 延元2年(1337年)、薊山合戦において焼失した庄氏の菩提寺である 宥 荘 寺 が、天文24年(1555年)、紀州根来寺の僧侶である頼暁によって児玉氏の菩提寺である西光寺と一ヵ所に再建され、 宥勝寺 が建立した。元は「荘(庄)氏を宥める為の 寺 」の意味であったが、戦国武将にとって縁起のよい「 勝 」の字を用いて 宥勝寺
- 庄頼家
- 宥 荘 寺 である。しかし14世紀中頃の延元2年(1337年)の薊山合戦で 寺 は焼失。さらに16世紀中頃の天文24年(1555年)に頼暁と言う紀州の僧侶が本庄氏ゆかりの霊場が無くなるのを惜しみ、西光寺(児玉党祖である有道惟行が浅見山、本庄で言う大久保山に建てた 寺 )と 宥 荘 寺 を一か所に再建した。これを 宥勝寺 と言う。山号は西光山。
- 庄家長
- 家長の没した場所、及び、墓所は不明である。武蔵国で亡くなったのか、備中国で亡くなったのかも分からず、そうした伝承がない。しかし、13世紀初めに庄氏の菩提寺である 宥 庄 寺 (後の 宥勝寺 )が建立した事から遺骨は武蔵に戻ったと考えられる(建立するまでは児玉氏の菩提寺である西光寺に納められた可能性もあるが)。
- 埼玉県指定文化財一覧
- 影森用水(秩父市) 中山家範館跡(飯能市) 黒川丹波守正直墓(坂戸市)※大智 寺 に所在 加賀爪氏累代墓(東松山市)※高済 寺 に所在 畑時能供養祠(上里町)※陽雲寺に所在 猪俣小平六墓(美里町)※高台院に所在 荘小太郎頼家墓(本庄市)※ 宥勝寺 に所在 榛沢六郎供養塔(深谷市) 平田篤胤仮寓跡(越谷市) 川俣締切跡(羽生市)
- 吉田宏晢
- 『傍訳弘法大師空海 大日経開題』宮坂 宥勝 監修 編著 四季社 2009 『傍訳 弘法大師空海 梵網経開題』宮坂 宥勝 監修 金岡秀友,遠藤祐純共編著 四季社 2010 『傍訳弘法大師空海 釈論指事』監修 宮坂 宥勝 (四季社、2010年) CiNii>吉田宏晢 INBUDS>吉田宏晢 ^ 『現代日本人名録』2002年 西光山 宥勝寺 表示
- 本庄国房
- 14世紀中頃に入ると、南北朝時代をむかえ、児玉党や丹党などの武蔵武士団は南朝に属して戦った(そして弱体化、あるいは没落した)。同時代、庄氏ゆかりの 宥 荘 寺 が延元2年(1337年)の薊山合戦により焼失した(後世になり、 宥勝寺 として再建される)。この事もあって、本庄氏の系図については信憑性が曖昧であり、後世に創られた系図が複数ある事もあ
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