長応寺
ウィキペディア検索
- 長応寺 (品川区)
- 長応寺 (ちょうおうじ)は、東京都品川区にある法華宗陣門流の寺院。 1479年(文明11年)、三河国の豪族鵜殿氏の開基である。元々は鵜殿氏の拠点だった西郡(現・愛知県蒲郡市)に位置していたが、戦災で廃寺になってしまった。 1590年(天正18年)、徳川家康の江戸入府の際に、鵜殿氏出身で家康の側室の西
- 駐日オランダ大使館
- Japan)が置かれた。1867年(慶応3年)末に勃発した江戸薩摩藩邸の焼討事件により西 応寺 も延焼、全焼したため、オランダ公使館は品川の 長応寺 へ移転し、オランダのディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック代理公使らは 長応寺 で明治維新を迎えた。 1868年(明治元年)、ファン・ポルスブルックは維新後も引
- 西郡局
- 父(養父)とされる鵜殿氏について、柏原鵜殿 長 忠とする説、同鵜殿 長 祐とする説( 長 忠の養父)がある。なお、上ノ郷鵜殿長持とする説( 長 忠の実父)、大久保氏とする説もあるが、誤りである。 ^ 長応寺 は明治維新後に北海道幌延町に移転したが、鵜殿氏ゆかりの絵曼荼羅と共に西郡局の肖像画や位牌などを所蔵している。東京都品川区に現存する 長応寺
- かつて日蓮正宗に属していた寺院一覧
- るいは日蓮宗への復帰などにより、現在は日蓮正宗(静岡県・大石寺)とは異なる儀式・法要などを執行している寺院の一覧である。 寺号が太字のものは、触頭 長応寺 『日蓮法華宗勝劣派本末寺名帳』其二(明治三年)において大石寺末として記載されていた諸寺院を示す。 備考の宗教法人正信会、宗教法人正信会のホームペー
- 日蓮正宗寺院一覧
- 蓮正宗としての化儀に基づく各種儀式・法要などが執行されていない寺院は「かつて日蓮正宗に属していた寺院一覧」を参照。 「※」および「※触頭」は、触頭 長応寺 『日蓮法華宗勝劣派本末寺名帳』其二(明治三年)において大石寺末として記載されていた諸寺院を示す。 日正寺(札幌市北区) 大慈院(札幌市清田区) 直唱寺(札幌市厚別区)
- 本妙寺 (豊島区)
- て失われた本成寺再建の為である。塔頭6ヶ院(円立院、本行院、本蔵院、本立院、円行院、感應院)を廃して巣鴨の地に移転した。同じく勝劣派の触頭であった 長応寺 もまた塔頭4ヶ院を廃して北海道の天塩に、寺号を移すという掛替えの無い犠牲を払った。 昭和16年(1941)に本妙寺は総本山本成寺の別院となる。
- 如意 (名古屋市)
- 坪・丸知・池田・洗ぞく・若鶴・桟敷・坊地・生棚・菱池・五反田・仲田・鳥見塚・ 長 丁・玄馬・尻広・ 長 の島・火の爪・新堀・山の尻・瑞 応寺 ・若宮・北浦・三軒家・井堀・池下 地内の大井神社に如意輪観音が祀られていたことによるとも、 長 母寺の僧により仏語を名付けられたともいう。 1889年(明治22年)10月1日
- 妙善寺 (福井県おおい町)
- 改宗して名田庄三重に建立した法華堂が起源。天文年間(1532年-1555年)現在地に移転した。 本堂 肥後阿闍梨日像(日像菩薩) [脚注の使い方] 長応寺 (福井県おおい町) 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺 (1981年) 表示 編集 表示 編集
- 金子金陵
- 森勇三郎の妻が田原藩主である三宅家の出身であることを縁に金陵に入門したという。崋山の『寓画堂日記』や『謾録』にも金陵についての記述がみられる。椿椿山や滝沢宗伯も金陵の弟子であった。 芝伊皿子 長応寺 (1902年(明治35年)北海道に移転)に葬られる。 長崎派 「長崎系南画展」 1984年 佐野美術館
- 坂本重安
- を与えられている。病のため、兄の重安の領地である深見村に閑居している。 寛永21年(1644年)没、法名は法常院殿日住居士[要出典]。はじめ高輪の 長応寺 に葬り、のち青山の持法寺に改葬した。 家督は養子の重治(重治の母は阿倍重真の娘)が継いでおり、重治はのちに大目付・寺社奉行など幕府の要職を務め、短
PAGE TOP