万昌院
基本情報
- 所在地
- 〒164-0002
東京都中野区上高田4丁目14-1
- TEL / FAX
-
03-3387-6321
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 都営大江戸線 東中野 670m
- 東京メトロ東西線 落合 680m
- 西武新宿線 新井薬師前 690m
- 周辺情報
- まこと幼稚園 幼稚園
- 萬昌院功運寺 仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)
- まいばすけっと上高田4丁目店 その他のスーパーマーケット
- 中野区立白桜小学校 小学
- 中野区立第五中学校 中学
- アポロ歯科衛生士専門学校 専門学校
- 業務スーパー東中野店 その他のスーパーマーケット
- セブンイレブン中野上高田1丁目店 セブン-イレブン
- 私立明治大学付属中野中学校 中学
- デイリーヤマザキ中野小西店 ヤマザキデイリーストアー
- 中野消防署東中野出張所 消防分署、出張所
ウィキペディア検索
- 萬昌院功運寺
- 萬 昌院 功運寺(ばんしょういんこううんじ)は、東京都中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。 赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。 元々は萬 昌院 という寺と功運寺という別々の寺であったものが、1948年に合併してできた寺である。 萬 昌院
- 赤穂事件の人物一覧
- 榊原平右衛門 文官 台所口 鳥居利右衛門正次 用人 座敷庭 宝蔵 院 流の槍術で赤穂義士を翻弄したという。吉良とともに小屋の中にいた3人の一人(『大熊弥一右衛門見聞書』) 斎藤清左衛門 小姓 同 本翁元来信士( 万昌院 ) 負傷のち死亡 大河内六郎左衛門 剣室宗寒信士( 万昌院 ) 浅野内匠頭長矩
- 桂昌院
- 桂 昌院 (けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。光子。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正(宗利)。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。
- 観泉寺
- 寛文2年(1662年)、直房は市谷田町の 万昌院 が牛込に移転するのに際し、 万昌院 にあった祖父今川氏真と母(吉良義安の娘)の墓を観泉寺に移転し、今川氏真を観泉寺の開基とした。なお、 万昌院 は現在中野区に移転し 万昌院 功運寺となっている。 1763年に本堂などが焼失したが本堂は翌1764年に再建された。
- 島津修久
- でアルバイトを始め、28歳の時、同社に入社した。1990年に同社社長、2001年に会長、1993年からは照国神社の宮司も務める。 修久は吉良義央の 万昌院 での12月14日の法要に参加すると共に、鹿児島の島津家別邸・仙巌園(世界文化遺産)にある供養施設(観音岩)でも翌日に供養儀式を行なっている(慰霊式は神道)。
- 斎藤宮内
- 家老のほか通行すべからず」という貼り紙を逃げた穴に貼られたなどとする小説もある。 実際の史料では、『米沢塩井家文書』によると、斎藤は吉良家菩提寺の 万昌院 を通じて大目付・仙石久尚に願い出て、泉岳寺の石獅、一呑の両名から義央の首をもらい受けたと記されており、臆病かはさておきそれなりに主家のための行動はできる能吏であったようである。
- 小林平八郎
- を貶める傾向があると指摘する研究家もおり、これも本当かどうかは不明。 墓所は、吉良家の菩提寺である東京都新宿区牛込の 万昌院 (法名・即翁元心居士)や東京都豊島区巣鴨の慈眼寺(法名・通玄 院 恵澄正脱玉円日融信士)にある。没年齢は墓によってまちまちでありはっきりとしない。 山田宗徧筆書簡 -
- 吉良義定
- 寛永4年(1627年)9月15日、三河国にて死去。享年64。西尾の実相寺に葬られた。のちに、吉良家の菩提寺となった江戸市谷の 万昌院 に改葬された。 ^ 『寛政重修諸家譜』記載の享年より逆算 『寛政重修諸家譜』巻第九十二 吉良義定の木像 - 西尾市公式ウェブサイト
- 一月長得
- 万昌院 (現・萬 昌院 功運寺)を開いた。今川家の直系としては、父の死後に今川家が滅亡して、後に兄の今川氏真が徳川家康から高家として迎えられるとこれに従った。 慶長19年(1615年)に氏真が亡くなった時に弔いを行ったのは長得と伝えられており、 万昌院
- 今川義彰
- 天明5年(1785年)8月14日没。法名:影輪禅童子。 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年) [脚注の使い方] ^ 長延寺・ 万昌院 ・観泉寺過去帳には8月11日没とある。 ^ 家祖・国氏から数えた代数。 [脚注の使い方] ^ a b 『柳営補任』による。 ^ 『今川氏と観泉寺』p
企業データ
PAGE TOP