信松院
基本情報
- 所在地
- 〒193-0931
東京都八王子市台町3丁目18-28
- TEL / FAX
-
042-622-6978
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- JR八高線 八王子 1500m
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- 信松院
- 信松院 (しんしょういん)は、東京都八王子市台町三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は金龍山。開基は 信松 尼(武田信玄の四女・ 松 姫)。開山は卜山舜越。八王子七福神の一つである布袋像を祀る。 1590年(天正18年)に 信松 尼( 松 姫)が心源 院 より八王子御所水(現・八王子市台町)の草庵に移転したのが創建とされる。
- 信松尼
- 信松 尼(しんしょうに、永禄4年(1561年) - 元和2年4月16日(1616年5月31日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。甲斐国の戦国大名である武田信玄の四女(諸説あり)。出家前の名は 松 姫(まつひめ)。母は側室の油川夫人。同母の兄弟姉妹には仁科盛 信 (五郎)、葛山 信
- 台町 (八王子市)
- 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 京王電鉄バス 八王子駅南口 - 富士森公園 - 西八王子駅南口 - グリーンヒル寺田・法政大学 八王子駅南口 - 信松院 - 西八王子駅南口 八王子駅南口 - 富士森公園 - 上大船・法政大学・東京家政学院 東京都道・神奈川県道506号八王子城山線 八王子実践中学校・高等学校(台町一丁目)
- ホオズキ
- (2009年7月9日). 2009年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月9日閲覧。 ^ a b 浅草暦浅草大百科 ^ “ 信松院 の年中行事”. 信松院 . 2019年10月4日閲覧。 ^ “年中行事”. 六本木 朝日神社. 2019年10月4日閲覧。 ^ ヒロハフウリンホオズキ 国立環境研究所
- 西村俊一
- 信松院 住職を務める傍ら、講談社の少年雑誌『少年倶楽部』の編集部に所属していた。当時千駄木の団子坂にあった講談社は、勝林寺を編集会議に活用していたことから、西村は幼いころから編集会議に集まった田河水泡や山川惣治、高垣眸らに可愛がられた。また当時の講談社の社風に従い、弟の西村輝成(八王子市 信松院
- 海野信親
- 院 殿釈潭竜芳大居士。 一族の穴山 信 君(梅雪)の娘を娶り、その間に儲けた子の信道は出家して顕了道快と号し、織田家による残党狩りを逃れたが、大久保長安事件に連座して伊豆大島に流された。紆余曲折を経て赦免された後に江戸幕府の高家として命脈を保った。また、妹の 信松院 殿に匿われた女子もある。
- 武田信貞
- 菩提寺は油川氏菩提寺の長竜寺。 仁科盛 信 の子孫が作成した正徳2年(1712年)の「八王子 信松院 江納候由緒之控」では長篠合戦以降も存命し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に仁科盛 信 の次男・武田 信 貞を保護したとする異説を記している。仁科氏、油川氏共に甲斐武田氏の一族である。 武田 信
- 関船
- 西国諸大名が参勤交代に用いる御座船にも、豪奢な装飾が施された関船が用いられるようになった。幕府も将軍の御座船として関船「天地丸」を使用している。 信松院 には、安土桃山時代に制作された1/25の大きさの安宅船と関船の木製雛型(模型)が奉納されている。これらは現在、東京都の文化財に指定されている。 ^
- 井上靖
- 『おろしや国酔夢譚』――収録:おろしや国酔夢譚 『額田女王』――収録:額田女王 『後白河 院 ・楊貴妃伝』――収録:後白河 院 、楊貴妃伝 『淀どの日記』――収録:淀どの日記 『真田軍記』――収録:真田軍記、篝火、高嶺の花、犬坊狂乱、川村権七逐電、 信松 尼記、佐治与九郎覚書、信康自刃、平蜘蛛の釜、幽鬼、利休の死、桶狭間、天目山の雲、森蘭丸、天正十年元旦
- 見性院 (穴山梅雪正室)
- 甲斐国に生まれる。穴山氏は甲斐南部河内地方の国衆で、 信 君の父である信友も信玄姉の南 松院 殿を正室とし、武田親族衆の筆頭として高い家格を有している。 信 君は信玄・勝頼期に重用され、河内・駿河江尻領を領する分郡領主となる。見性 院 は永禄年間に 信 君の正室となったと考えられているが、嫡男勝千代の誕生は元亀3年まで下る。
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