蕃松院
基本情報
- 所在地
- 〒384-0412
長野県佐久市田口下町2893
- TEL / FAX
-
0267-82-6183
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR小海線 臼田 1530m
- JR小海線 龍岡城 1540m
- JR小海線 青沼 2230m
- 周辺情報
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- 龍岡城五稜郭 城跡
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- 蕃松院
- 蕃松院 (ばんしょういん)は長野県佐久市にある曹洞宗の寺院。山号は大梁山。本尊は釈迦牟尼仏。 創建は不明。永禄3年(1560年)には武田信玄から60貫500文の寄進を受けている。古くは天台宗明法寺と称したが、天正壬午の乱後に戦死した依田信 蕃 の菩提を弔うため、天正12年(1584年)に長男の依田康国が
- 奥殿藩
- 慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が 蕃松院 (佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。
- 依田康国
- 信 蕃 の功績を認めた徳川家康は、同天正11年3月、康国に「康」の偏諱と松平姓を与えて元服させ、松平源十郎康国と名乗らせ、大久保忠世を後見人として小諸城と6万石を賜る。同年、父の菩提を弔うため、田口城麓の居館跡に 蕃松院 (曹洞宗)を整備した。同寺に信 蕃 の位牌と、夫妻のものと伝わる墓所が残る。
- 依田信蕃
- 蕃 の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。2月22日、実弟・依田信幸と共に敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信 蕃 は翌日の2月23日に死去した。享年36。後に長男の松平康国(依田康国)が整備した 蕃松院 が墓所となる。同寺に信 蕃 の位牌と、信 蕃 夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。(『依田記』『三河物語』)
- 新海三社神社
- 移転。佐久三十三観音12番札所。849年上宮太子創建 大梁山 蕃松院 – 下町2893。曹洞宗の古刹。依田康国建立、依田信 蕃 菩提所 能満寺 – 割元小林孫左衛門清茂の碑がある 龍岡城 – 田野口村田野口藩藩庁・陣屋 龍岡城駅 遍照寺 最明 院 長慶寺 立正寺 吉祥寺 [脚注の使い方] ^ a b c d
- 佐久臼田インターチェンジ
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- 対馬府中藩
- 17世紀後半には、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲や陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄の様子は、菩提寺万 松院 のみならず、海神神社や和多津美神社の壮麗さが今日に伝えている。1685年(貞享2年)には、第3代藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家
- 日本学士院
- 日本学士 院 (にっぽんがくしいん、英: The Japan Academy)は、日本学士 院 法(以下「法」)に基づいて設置されている日本の国立アカデミーであり、文部科学省の特別の機関である。1879年に東京学士会 院 として発足し、1906年に帝国学士 院 に改組された。1947年に日本学士 院
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