智識寺
基本情報
- 所在地
- 〒389-0822
長野県千曲市大字上山田八坂1197
- TEL / FAX
-
026-275-1120
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- しなの鉄道線 戸倉 3200m
- しなの鉄道線 坂城 3680m
- しなの鉄道線 千曲 4790m
- 周辺情報
- 飛田武りんご園 果実狩り
- 千曲市立上山田小学校 小学
- 千曲市役所上山田庁舎 市役所・東京23区の区役所
- 羽場農園 果実狩り
ウィキペディア検索
- 智識寺
- 智識寺 (ちしきじ) 智識寺 跡 - 大阪府柏原市の寺院跡。 智識寺 - 長野県千曲市の 寺 。 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページ
- 智識寺跡
- 智識寺 跡(ちしきじあと、知 識寺 跡/太平寺廃寺)は、大阪府柏原市太平寺(旧:河内国大県郡)にある古代寺院跡。金堂跡・東塔跡は大阪府指定史跡に指定されている。 山下 寺 ・大里 寺 ・三宅 寺 ・家原寺・鳥坂 寺 とともに「河内六 寺 」と総称された寺院である。 古代日本において、「知識」と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の
- 藤原仲麻呂
- 大仏建立を強く勧めたとされる。また、天平12年(740年)に聖武天皇が河内国大県郡の 智識寺 を訪ね、その 寺 の盧舎那仏から大いに影響を受けたという。この 智識寺 は、名が表すとおり 智識 (同信集団)の勧進銭によって建立された 寺 で、それは東大寺成立の過程にも反映された。 天平11年(739年)従五位上、天平12
- 太平寺の戦い
- の地名をとって「太平寺の戦い」と呼ばれている。 太平寺は現在廃寺となっている。古来この周辺には 智識寺 、山下 寺 、大里 寺 、三宅 寺 、家原寺の六 寺 があり、それらを総称して河内六 寺 と呼ばれていた。その六 寺 の中の 智識寺 には大規模な廬舎那仏があり、それをみた聖武天皇が奈良の大仏を造るきっかけとなったと柏原市教育委
- 石神社 (柏原市)
- 境内社務所横には、 智識寺 の東塔の礎石があり、大阪府の文化財に指定されている。礎石の柱穴の直径が122cmあり、かつては神社の手洗い石として使用されていたようだが、現在は柵で囲われている。 本殿 境内のクスノキ(大阪府指定天然記念物) 境内にある 智識寺 東塔の礎石(大阪府指定文化財) 夏季大祭(7月18日、19日)
- 千曲市
- · 坂井銘醸大正蔵 · 坂井銘醸明治蔵 · 坂井銘醸慶応蔵 · 坂井銘醸寛政蔵 · 坂井銘醸宝暦蔵 智識寺 (十一面観音像は国の重要文化財) 見性 寺 庭園 荒砥城 (城山史跡公園) 善光寺大本願別院 聖山高原県立公園 千曲高原・大池自然の家 千曲高原・大池キャンプ場 姨捨の景観
- 智識寺 (千曲市)
- 智識寺 (ちしきじ)は、長野県千曲市大字上山田にある真言宗智山派の寺院。山号は清源山。 天平12年(740年)創建とされる古刹で、伝承では大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麻呂が堂宇を改修したという。鎌倉時代には幕府を開いた源頼朝の信仰も篤く、建久9年(1209年)に七堂伽藍が建立され仁王像が寄
- 続日本紀
- 吉備真備ら帰国。舎人親王(『日本書紀』編纂の主催者)死去。葛城王を橘諸兄と改名。 藤原四兄弟次々と死去。天然痘大流行。 安倍内親王立太子。橘諸兄右大臣なる。 聖武天皇、光明皇后が 智識寺 の盧舎那仏を拝する。大宰小弐、藤原広嗣が挙兵する。広嗣斬殺される。恭仁京遷都の詔。 国分寺建立の詔 大宰府を廃止する。紫香楽に離京を造る。
- 河内六寺
- 河内六 寺 (かわちろくじ)は、河内国にあった古代仏教寺院である 智識寺 ・山下 寺 ・大里 寺 ・三宅 寺 ・家原寺・鳥坂 寺 の総称。いずれも現在の大阪府柏原市に位置したとされる。 『続日本紀』の天平勝宝八歳二月条に「戊申、行幸難波、是日、至河内国、御 智識寺 南行宮、己酉、天皇幸 智識 、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等六 寺
- 大阪府指定文化財一覧
- 愛宕塚古墳〔八尾市〕 智識寺 金堂跡および東塔跡〔柏原市〕 清浄泉(浄井戸)〔柏原市〕 安福 寺 横穴群〔柏原市〕 割塚古墳〔藤井寺市〕 壷井八幡宮境内〔羽曳野市〕 伽山墳墓〔太子町〕 叡福 寺 境内〔太子町〕 御嶺山古墳〔太子町〕 仏陀 寺 古墳〔太子町〕 平石城跡〔河南町〕 弘川寺境内〔河南町〕 高貴 寺 境内〔河南町〕
企業データ
PAGE TOP