賢聖院
基本情報
- 所在地
- 〒474-0001
愛知県大府市北崎町北屋敷22
- TEL / FAX
-
0562-46-1454
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR東海道本線 大府 2610m
- JR武豊線 大府 2610m
- JR東海道本線 逢妻 2720m
- 名鉄名古屋本線 豊明 2970m
- 周辺情報
- 大府市立神田小学校 小学
- 愛知県立大府東高校 高校
- ゴルフパートナー大樹大府店 大型専門店(スポーツ・アウトドア)
- 普門寺 全国巡礼名所(尾張三十三観音)
- JAあいち知多神田支店 銀行その他
- ファミリーマート大府北崎店 ファミリーマート
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- 芝山家
- 明治元年(1868年)、8代・宮内大輔・芝山国典の養子で、興福寺 賢聖院 住持の国映が復飾して「今園家」を、また、7代・宮内大輔・芝山国豊の養子で興福寺成身 院 住持の豊訓が、同じく復飾し「芝小路家」をそれぞれ興した。 芝山宣豊 (1612 - 1690) 芝山定豊
- 今園国映
- 明治26年(1893年)4月12日)は、日本の華族。坊城俊政の次男で宮内大輔芝山国典養子。興福寺聖賢 院 住職。 文化2年(1862年)仏門に入り、奈良興福寺塔頭 賢聖院 の法嗣として入り、慶応4年(1868年)正月に同院を相続した。しかし同年4月に堂上家出身の門跡および諸 院 家は還俗を命ぜられ、明治2年11月華族に列し今園家を創建した。18
- 障子
- 内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る 賢聖 障子がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。 取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている。 平安時代に入って間もない頃には「 賢聖 障子」という名はまだ無かったが弘仁12年(821年)の内裏式に紫宸殿の母屋と北庇を仕切る樹板障子が出てくる。 賢聖
- 板戸
- 一方、紫宸殿の母屋と北廂の間の境に「 賢聖 の障子」があった事は前に述べた。 「 賢聖 の障子」の成立の確かな資料は、『日本紀略』延長七年(929年)の条に、 「少内記 小野道風をして紫宸殿障子を 賢聖 像に改書せしむ。先年道風書く所なり」 とあり、この以前から存在していたことになる。
- しつらい
- が、壁代を掛けているので冬場ということになる。 図の一番上の北庇との間は押障子と鳥居障子が交互に使われている。内裏の紫宸殿なら 賢聖 障子が填められている処である。はめ殺しの 賢聖 障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子(襖)がその役目を果たしている。 縦の列、つまり側面を見ると、母屋に置かれた「
- 貞慶
- 薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され行ったとあるように慶円三輪上人とは無二の親友であった。 貞慶の墓は、持 聖院 (旧惣持寺、奈良県生駒郡三郷町)・笠置寺(京都府相楽郡笠置町)・海住山寺(京都府木津川市)でそれぞれ伝承される。2016年(平成28年)には持 聖院 境内の五輪塔下の骨壺(蔵骨器)に関して調査が実施され、壺内に残された人骨の
- 随心院
- 江戸時代初期の建立。襖絵に、狩野派絵師による「舞楽の図」「節会饗宴の図」「 賢聖 の障子」「虎の図」が描かれている。 庫裡 - 宝暦3年(1753年)に二条家より移築。庫裡は同家の政所御殿であったもの。 小町堂 - 納骨堂。 長屋門 薬医門 - 寛永年間(1624年 - 1631年)の建立。 天真 院 尼の寄進。 小野梅園 -
- 福住中定城
- 福住城の名は永享6年(1434年)に筒井城と並んで出てくるのが史料の初見となる(『興福寺 賢聖院 経巻奥書』)。応仁の乱では、福住氏と筒井氏の軍勢が福住城に駐屯した。文明7年(1475年)には福住館、文明13年(1481年)には福住城と記されている(『大乗 院 寺社雑事記』)。館から城郭へ変わったのではないかと推察されている。
- 建内記
- 『建内記』(けんないき)は、室町時代の公卿万里小路時房の日記。「けんだいき」とも読まれる。書名は時房の法号である「建 聖院 」と、時房の極官である内大臣に由来する。後世の人が時房の日記を『建 聖院 内府記』と呼び、この呼称が略されて『建内記』の呼称が定着した。『建相記』『時房公記』とも呼ばれる。『満済准后日記
- 大府七福神
- 浄通院(追分町) 恵比寿 普門寺(横根町) 大黒天 地蔵寺(長草町) 毘沙門天 光善寺(北崎町) 弁財天 地蔵 院 (中央町) 福禄寿 大日寺(月見町) 寿老人 賢聖院 (北崎町) 布袋尊 大府市内の七福神を祀る7寺院で組織する「大府七福神テンプルズ」が主催する七福神巡りで、毎年節分前の日曜日に催されている。
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