美濃国分寺
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- 美濃国分寺
- 美濃国分寺 (みのこくぶんじ)は、岐阜県大垣市青野町にある寺院。高野山真言宗の準別格本山、西 美濃 三十三霊場満願札所。山号は金銀山。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された 国分寺 のうち、 美濃国 国分 僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である 美濃国分寺
- 美濃国
- 国府は不破郡(現:垂井町府中)にあった。様々な遺構や遺物が発掘され「 美濃国 府跡」として国の史跡となっている。 美濃国分寺 上記の国府に近い青野ヶ原(現:大垣市)に建立された。現在の 美濃国分寺 は江戸時代初期の再興。 美濃国分 尼寺 国分寺 の南西約1km(現:垂井町平尾)に建立されたとされており、平成16
- 国分寺
- 国分寺 (こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。 国分 僧寺(こくぶんそうじ)と 国分 尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。 正式名称は、 国分 僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、 国分
- 信濃国分寺
- 信 濃国分寺 (しなのこくぶんじ)は、長野県上田市 国分 (こくぶ)にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来。現在山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院 国分寺 」と号した。また本堂の薬師堂には「八日堂(ようかどう)」の別称がある。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された 国分寺 のうち、信 濃国 国分寺
- 信濃国
- 国分寺 ・ 国分 尼寺 信 濃国分寺 跡 (上田市 国分 、北緯36度22分48.27秒 東経138度16分15.01秒 / 北緯36.3800750度 東経138.2708361度 / 36.3800750; 138.2708361 (信 濃国分寺 跡)) 国の史跡。北方に後継の 国分寺 (上田市 国分 、北緯36度22分58
- 尾張国
- 1887年(明治20年)に 美濃国 に移管。 ^ 願興寺比定地の尾張元興寺跡(名古屋市中区)の発掘調査では、10世紀以降に出土品は激減するため、この頃願興寺は廃寺に至ったと見られる。 一方、 国分 尼寺は史料上で11世紀初頭までの存続が確認されるため、10世紀以降は尾張 国分 尼寺が 国分寺 に転用されたとする説がある
- 三河国
- 3417833 (三河 国分寺 跡・三河 国分寺 後継寺院)) 国の史跡。1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)の発掘調査で金堂・講堂・塔跡などが確認された。現在は跡地に永正年間創建の国府荘山 国分寺 が建てられ、 国分寺 の法燈を伝承するほか、古代の 国分寺 の銅鐘(梵鐘)を伝える。 三河 国分 尼寺跡(豊川市八幡町忍地、北緯34度50分26
- 不破郡
- 7世紀前半 ‐ 南大塚古墳がつくられる。 645年 ‐ 府中に 美濃国 府をおく。 672年 ‐ 壬申の乱がおこる。(関ケ原でも戦いがおこる) 673年 ‐ 不破の関をおく。 740年 ‐ 聖武天皇が不破郡に来られる。 8世紀後半 ‐ 美濃国分寺 、 国分 尼寺が建てられる。 787年 ‐ 不破の関が廃止となる。
- 山城国
- 135.8628472 (恭仁宮跡(山城国分寺跡))) 国の史跡「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」。 国分寺 は、僧寺と尼寺ともに相楽郡にあった。 国分寺 金堂は恭仁宮大極殿を転用したもので、天平18年(746年)9月に 国分 僧寺に施入された。元慶6年(882年)に焼失し、昌泰年間に再建されたと伝えるが、寺勢は次第に
- 伊勢国
- 国分寺 (鈴鹿市 国分 町)のほか、明星山 国分寺 (亀山市白木町新田)、護国山人生尹丸刀院 国分寺 (松阪市伊勢寺町)が法燈を伝承する。 伊勢 国分 尼寺跡 未詳。鈴鹿市 国分 町の集落部分に位置する 国分 遺跡と推定されるが、詳らかではない。発掘調査では、寺域区画と推測される溝・掘立柱塀が発見されている。 なお 国分寺
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