愚渓寺
基本情報
- 所在地
- 〒505-0121
岐阜県可児郡御嵩町中2635-1
- TEL / FAX
-
0574-67-0123
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 愚渓寺
- 愚渓寺 (ぐけいじ)は、岐阜県可児郡御嵩町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は大智山。石庭は竜安寺の石庭の原型となったといわれる。 応永3年(1396年)、妙心寺五世の義天玄承によって現在地より600m西の鈴ヶ洞に創建され、 愚渓 庵と称した。 義天玄承は尾張犬山の瑞泉寺で日峰宗舜(後の妙心寺四世)に師事修行し、
- 御嶽宿
- 旅籠:28軒 名鉄広見線 御嵩駅 御嶽宿本陣跡 中山道みたけ館 岐阜県内、特に御嵩町内の中山道関連の展示が充実している。入館無料。 願興寺(蟹薬師) 愚渓寺 伏見宿までの史跡・みどころ 鬼の首塚 鎌倉時代初期、鬼岩の岩窟に住み着いき乱暴狼藉を極めた「鬼の太郎」を、この地の地頭交告源吾盛康の家臣4名が、
- 大圓寺 (恵那市)
- 村人達によって付近に葬られ希菴塚と呼ばれている。 希菴が殺害された後に暫くして、東濃三大名刹(大圓 寺 ・永保 寺 ・ 愚渓寺 )の一つと言われ、約15ヘクタールもの広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た大圓 寺 の建物群と、仏像や庭園、遠山氏累代の墓や過去帳をはじめとする書物や絵画などが全て破壊されて、歴史の幕を下ろした。
- 御嵩町
- 中山道(国道21号の旧道) 伏見顔戸街道(国道21号の旧道) 鬼岩公園 鬼岩温泉 生活環境保全林「みたけの森」 願興寺仏像 愚渓寺 石庭 顔戸八幡神社祭礼(毎年10月に行われる) 御嵩町薬師祭礼(毎年4月の第1日曜日に願興寺で行われる) 鬼岩福鬼まつり よってりゃあ、みたけ(毎年8月に行われる夏祭り)
- 明叔慶浚
- 享禄2年(1529年)、復興した 愚渓寺 で開堂式を行った。 享禄3年(1530年)、一時期 龍源山 興聖寺に移り、同年再び 愚渓寺 に戻った。 享禄4年(1531年)、飛騨国益田郡中呂の圓通寺に移った。 天文3年(1534年)6月に美濃国恵那郡遠山荘の地頭遠山景前の招きにより大圓 寺 (岐阜県恵那市)を再興し天文10年(1541年)まで止住した。
- 悟渓宗頓
- 愚渓寺 (岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄承、汾陽 寺 (岐阜県関市武芸谷)住持の雲谷玄祥、や大樹寺(三重県四日市市市場町)住持の桃隠玄朔の下に参禅した[要出典]。京都に移ってからは龍安寺の住持で、妙心寺六祖の雪江宗深に就いて印可を得た。宗深から「悟 渓 」の名を与えられた。
- 願興寺 (岐阜県御嵩町)
- による兵火により消失した。 この時に、 愚渓寺 四世の三芝等惟は衆徒をニ~三十人引き連れて願興寺に赴き、本尊や諸尊、創建以来の古文書を運び出した。 その中で大力の僧は、四天王の尊像を一人で担ぎ出し、 愚渓寺 の西の山に運び草庵を造って安置したが、その址は 愚渓寺 山にあって薬師堂と呼ばれている。
- 景川宗隆
- 伊勢国(現・三重県)に生まれる。幼くして円明寺で出家し、瑞泉寺住持の雲谷玄祥の下で修行する。その後は遊行して美濃国 愚渓寺 (岐阜県可児郡御嵩町)の義天玄詔、讃岐国慈明庵の桃隠玄朔に師事する。桃隠玄朔に就いて伊勢国大樹寺(三重県四日市市)に移り、その後京都竜安寺の住持と
- 希菴玄密
- 希菴は雪江の定めた一住三年の制を一住一年に改めて同門出世の道を開いた。 大圓 寺 は遠山氏一族の菩提寺であり、永保 寺 (岐阜県多治見市)、 愚渓寺 (岐阜県御嵩町)とともに東濃三名刹と呼ばれていた。禅昌寺は天下の十刹古禅 寺 として知られている。 永禄7年(1564年)武田信玄が菩提寺の恵林寺に、礼を尽くし
- 御嵩町立中小学校
- 可児郡中村に原泉学校が開校。 愚渓寺 境内に仮校舎を設置。 1874年(明治7年)9月 - 白山神社境内に移転。 1876年(明治9年)4月 - 啓溟学校と原泉学校と合併し、春木学校と改称する。御嵩村の蟹薬師境内に移転する。 1881年(明治14年)12月 - 春木学校から原泉学校が分離する。原泉学校校舎は 愚渓寺 境内に設置。新木野分校を設置。
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