徳蓮院
基本情報
- 所在地
- 〒518-0713
三重県名張市平尾3152
- TEL / FAX
-
0595-63-0615
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 近鉄大阪線 名張 300m
- 近鉄大阪線 桔梗が丘 2880m
- 近鉄大阪線 赤目口 3020m
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- 藤堂高吉
- 徳 まで、藤堂氏の通字である「高」ではなく丹羽氏の「長」を使用している。 名張藤堂家は代々宮内を通称し、藤堂宮内家とも呼ばれる。11代の高節の時に明治維新となり、子孫は現在も東京に在住する。 寛文10年(1670年)7月に死去した。享年93。墓所は名張の 徳蓮院 にある。 両親 父:丹羽長秀
- 藤堂長徳
- 熙の独立立藩騒動(享保騒動)で疎隔を生じていた藩主家との関係は、長 徳 が9代藩主・高嶷の外孫である血縁関係もあって改善された。天保初年に、郷校訓蒙寮を創設して学問を奨励した。元治元年(1864年)6月9日没。享年54。墓所は名張市 徳蓮院 。長男の長親は早世し、次男の長邦は久居藩主藤堂高聴の婿養子となって
- 藤堂長正
- 衛)に分与し、知行高1万5000石となった。この分知は藩主家による、名張藤堂家の勢力を削ぐ狙いがあったとされ、これにより名張藤堂家の藩内の家格は下げられた。天和2年(1682)8月20日、病気療養のため京都堀川の藤堂家屋敷に滞在中に死去した。享年69。法名は清涼 院 殿金翁長天大居士。葬地は名張 徳蓮院 。
- 藤堂高美
- 新修旧華族家系大成』)。名張藤堂家の先代長徳の長男の長親が早世し、次男の長邦(藤堂高邦)は久居藩主家を継いでいたため、長徳の婿養子となる。元政元年(1864年)8月6日に家督相続したが、同年8月29日に急死した。享年41。葬地は名張 徳蓮院 。藤堂采女家から高節が養子入りして名張藤堂家の家督を継いだ。
- 藤堂長美
- れる。兄2人が早世したため嫡男となる。享保20年(1735年)、父・長熙が名張藤堂家の津藩からの独立を企て失敗した享保騒動(名張騒動)の処分で隠居したため、わずか4歳で家督相続し、名張1万5000石の領主となる。長熙が大殿として後見したが10歳で死去し、弟の長旧が家督相続した。墓所は名張市 徳蓮院 。
- 藤堂高成
- 1911年(明治44年)7月10日、貴族 院 男爵議員に就任し(名義:憲丸)、1925年(大正14年)7月9日まで在任。1927年(昭和2年)4月16日に補欠選挙で貴族 院 議員に再選され、死去するまで在任した。 昭和5年(1930年)10月23日没。享年64。墓所は名張市 徳蓮院 。 妻 藤堂いく(郁子、養父二女)
- 藤堂長守
- 父長正より名張1万5000石の領地を相続する。残された書状から関白鷹司房輔とも付き合いがあったことがわかっている。元禄16年(1697年)閏2月7日没。享年51。葬地は名張 徳蓮院 。家督は嫡男の長源が相続した。弟の兵部長宥は3000石格で分家した。 藤堂長守の書状 表示 編集
- 藤堂長源
- 生来病弱であった。享保元年(1716年)、療養先の京都で客死した。跡を婿養子として分家・藤堂修理(九兵衛)家出身で従弟にあたる長熙が継いだ。宝永7年(1710年)の名張大火で屋敷が焼失しており、現在残っている名張藤堂家邸はその後再建されたものである。墓所は名張市 徳蓮院 。 名張藤堂家邸 表示 編集
- 藤堂長熙
- を譲ることとなった(享保騒動、名張騒動)。この件以降、名張藤堂家は藩主家からの圧力・監視を受け入れる形となった。 隠居の後も大殿として長美、長旧の後見を勤めた。安永5年(1776年)5月2日没。享年79。葬地は名張 徳蓮院 。 渋谷天笑:「不熟につき… 藤堂家城代家老の日誌より」(NHK、1990年)
- 藤堂長教
- 年)4月、名張藤堂家で慣習であった当主を「殿様」と称することを藩から禁じられている。文政13年(1830年)6月18日死去。享年52。墓所は名張市 徳蓮院 。家督は長 徳 が相続し、庶長子の長誠は300石を与えられ分家している。 早稲田大学教授・深谷克己HP「津藩・第四章「藩世界を支えた人々」 表示 編集
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