林丘寺
基本情報
- 所在地
- 〒606-8057
京都府京都市左京区修学院林ノ脇
- TEL / FAX
-
075-781-4985
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 周辺情報
- 京都市立修学院小学校 小学
- 修学院離宮 名所・観光地等
- 曼殊院門跡 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 赤山禅院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
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- 林丘寺
- 林丘寺 (りんきゅうじ)は、京都市左京区修学院にある臨済宗系の単立寺院。山号は聖明山。本尊は聖観音菩薩。修学院離宮の中御茶屋に隣接する。音羽御所とも称する。 この地にはもともと後水尾上皇の第一皇女梅宮文智女王が開いた圓照寺があった。同 寺 は移転して、現在は奈良市にある。
- 光子内親王
- 寺 し、天龍寺の僧天外のもとで剃髪し、嵯峨一灯庵に幽棲した。二年後の1682年(天和2年)には修学院村に 林丘寺 を建立し、開基となった。父帝の生前、内親王は修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称しており、この朱宮御所(音羽御所)を 寺 に改め 林丘寺 とした。客殿は養母東福門院の旧御所を移築したものである。
- 比丘尼御所
- 大聖寺、宝鏡寺、曇華院、光照院、霊鑑寺、圓照寺、 林丘寺 、中宮寺 御禅室 - 慈受院、三時知恩 寺 、法華寺、瑞龍寺、総持院、宝慈院、本光院 1871年(明治4年)5月、霊鑑寺宮、圓照寺宮の家事向を宮内省に属し、諸門跡、比丘尼御所号を廃し、寺院を地方官の管轄とした。 現代では一般的に尼門跡寺院と呼称され、京都・奈良に大聖寺、宝鏡 寺
- 修学院離宮
- 思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、 林丘寺 (りんきゅうじ)という 寺 に改められた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、 林丘寺 境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、 林丘寺 は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一
- 由理滴水
- 林丘寺 住職を兼ね、この 寺 を再興する。 明治25年(1892年)には天龍寺管長を龍淵に譲り、自分は 林丘寺 に隠栖する。明治30年(1897年)に再び天龍寺管長となり、再建工事を督促する。明治32年(1899年)に 林丘寺 住職を辞し、天龍寺再建に専念した。工事がほぼ竣工した直後に病にかかり、 林丘寺 雲母庵に寂す。
- 門跡
- 真盛山本光院(本光院門跡、上七軒西方尼寺、蔵人御所、茶の 寺 、腰掛如来。上京区真盛町745、天台真盛宗) 真言宗 妙心寺 臨済宗 岳松山大聖寺(御寺御所) 西山寳鏡 寺 門跡(百々御所) 曇華院(竹御所、竹之御所、竹の御所) 円成山霊鑑寺(谷御殿、鹿ヶ谷比丘尼御所) 普門山圓照寺(山村御所) 聖明山 林丘寺 (音羽御所) 広徳山慈受院(薄雲御所)
- 文智女王
- 泉涌寺の記録によると、徳川和子(東福門院)の最期を見とったのは後水尾上皇とこの文智女王の2人だけだったという。なお上皇の臨終の床の傍らには文智とその妹・朱宮光子内親王( 林丘寺 開山)が控えていた。 久保貴子『徳川和子』(吉川弘文館、2008) 久保貴子『後水尾天皇 - 千年の坂も踏み分けて』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2008年)
- 京都御所
- 境内のご案内(大覚寺公式サイト)。 ^ 妙法院大書院 - 国指定文化財等データベース(文化庁) ^ 妙法院玄関 - 国指定文化財等データベース(文化庁) ^ 林丘寺 -音羽御所-( 林丘寺 公式サイト)。 ^ a b 『京都の文化財 第32集』 京都府教育委員会、p. 3。 ^ 仁和寺 > 本坊表門 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 天田愚庵
- った。同年、その養子を辞し、旧姓天田に復すと共に鉄舟の世話で有栖川宮に奉職。2年後同宮を辞し、大阪内外新報社に入社した。 その後、鉄舟の紹介で京都 林丘寺 の滴水禅師の許で日曜毎に参禅し、1887年(明治20年)、得度を受け禅僧となり、鉄眼と称す。1888年(明治21年)、鉄舟が死去すると追善大法会を
- 法金剛院
- 837年)が山荘を構えたが、夏野の死後にその山荘を寺院に改め、名称を双 丘寺 としたのが当 寺 の始まりであるという。その後、嵯峨天皇、淳和天皇の行幸をみ、さらに仁明天皇も行幸されたがその際に 寺 の背後にある内山に登り、景勝をめでて内山に五位の位を授けている。これにより、内山は五位山と呼ばれ当 寺 の山号も五位山とされた。
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