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志明院

基本情報

所在地
〒603-8861
京都府京都市北区雲ケ畑出谷町261
TEL / FAX
075-406-2061
e-MAIL
URL
業種
寺院
コメント
最寄り駅
叡山電鉄鞍馬線 貴船口 5990m
鞍馬山鋼索鉄道線 多宝塔 6180m
鞍馬山鋼索鉄道線 山門 6250m
周辺情報
岩屋山志明院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)

関連情報

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志明院
志明院 (しみょういん)は、京都市北区雲ケ畑にある真言宗系の単立寺院。山号を岩屋山、寺号を金光峯寺という。通称は岩屋不動。本尊は不動明王。淳和天皇の勅願に依り弘法大師(空海)の直作と伝えられている。 なお、山門から先は霊場なので撮影、飲食、ペットの同伴は禁止されている。 日本有数の魔所、都から追われた魑魅魍魎の最後の砦と云われている。
雲ケ畑
9m)や北限の石仏峠を擁し、観光客だけでなくハイカーの来訪も多い。 山間地域であるため、場所により高低差が顕著に見られる。標高は出合橋付近248m、岩屋橋付近306mであり、岩屋山 志明院 に至っては450mを超える。 賀茂川の源流域に沿い広がる雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強固だった。平安京造営に際してはこの地の木材が用いられ
鳴神
を約束に皇子誕生の願をかけ、見事これを成就させる。しかし当の天皇が戒壇建立の約束を反故にしたため、怒った上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷( 志明院 )に封印してしまう。それからというもの雨の降らぬ日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困りはててしまった。
惟喬親王
段によると比叡山山麓とあり、近江と大原の説がある)に隠棲した。その後、山崎・水無瀬にも閑居したといわれる。それから京都市北区雲ケ畑の岩屋山金峯寺( 志明院 )に宮を建て移り住む。耕雲入道と名乗り宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫
桟敷ヶ岳
もっとも一般的な登路は、岩屋橋から薬師峠を経て山頂に至るルートである。岩屋橋にある惟喬神社から雲ケ畑岩屋川に沿って30分ほど林道を歩き、岩屋不動( 志明院 )から谷を離れて登山道が始まる。雲ケ畑と大森を結ぶ薬師峠には大きなモミの木と六体地蔵(六地蔵尊)があり、かつての峠茶屋と思われる廃れた休憩小屋があ
京都府道61号京都京北線
、車坂(くるまざか)と呼ばれる。惟喬(これたか)親王が小野郷へ向かう折に険阻な坂なので、この地で車を乗り捨てたという伝承があり、高貴な姫君が岩屋山 志明院 に参拝するにあたり、都から車坂まで牛車に揺られ、車坂からは輿に乗って参拝したともいう。 山幸橋の南で三叉路に差し掛かり、東方向に伸びる府道(市原バ
役小角
専女(伝説では刀良女とも呼ばれた)。生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。 白雉元年(650年)、16歳の時に山背国(後の山城国)に 志明院 を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行
司馬遼太郎
生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月、歌人川田順の失踪事件を取材。 翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動 志明院 に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し
開白寺
大正末年に当地の篤心家、今井田きぬ方で祀られていた弘法大師を本尊として建立された。昭和38年(1963年)、同市竹鼻町にあった法泉寺を境内に移築した。法泉寺は昭和27年に洛北 志明院 より移された不動明王を本尊とする寺院である。 行事として節分の星まつりや弘法大師の縁日や不動明王の縁日がある。また、寺宝として岐阜県の文化財に指定
孔祥明
なる。間に一子孔令文をもうけるが、1991年に離婚し、母子で日本在住する。1998-99年、囲碁関西誌上で、関西棋 院 女流・若手棋士との三番勝負「 志明 戦」に出場。1998年に令文が日本棋 院 初段となり、2001年に再婚して帰国、中国の棋戦に参加する。2012年に女子国手戦で、27年振りの棋戦優勝を果たした。

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