智積寺
基本情報
- 所在地
- 〒656-0332
兵庫県南あわじ市湊1289
- TEL / FAX
-
0799-36-2053
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 智積寺
- 智積寺 (ちしゃくじ) 智積寺 (南あわじ市) - 兵庫県南あわじ市にある高野山真言宗の寺院。 智積寺 (鳥取県琴浦町) - 鳥取県東伯郡琴浦町にある天台宗の寺院。 智積 廃寺 - 現在の三重県四日市市に飛鳥時代から奈良時代に存在した寺院。 智積寺 (四日市市) - 三重県三重郡佐倉村(現・四日市市)にあった寺院。
- 智積院
- 智積 院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。 寺 号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄宥。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間 寺 および東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。
- 船上山
- ある鳥取県立船上山少年自然の家が併設されている。 また、大山隠岐国立公園にも指定されている。 船上山は山岳霊場として、和銅年間に赤衣上人か 智積 上人によって、 智積寺 として開基されたと伝えられる。南北朝時代の初めには、隠岐を脱出した後醍醐天皇を伯耆の豪族、名和長年が迎え、船上山に行宮を築いた。後醍醐天皇
- 真言宗智山派
- 智積 院は南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が学問所として建立したものである。 天正13年(1585年)、根来寺は豊臣秀吉によって全山炎上するが、 智積 院の住職であった玄宥は、弟子たちを引きつれて 寺 を脱出して高野山に逃れた。その後、玄宥は新義真言宗の法灯を守るため 智積
- 真言宗
- 芙蓉良順( 智積 院第62世化主) 1980年 田中真弘(朝護孫子 寺 第131世法主) 1981年 小松道圓(泉涌寺第151世長老) 1982年 立部瑞祐(仁和寺第43世門跡) 1983年 上野頼栄( 智積 院第63世化主) 1984年 松本實道(西大寺第69世長老) 1985年 小峰順誉( 智積 院第64世化主)
- 九鬼氏
- ^ 三重郡佐倉村、桜村佐倉、現・四日市市桜地区 — 桜町、桜新町、桜台、桜台本町、桜花台、および 智積 町の一部。桜駅、 智積寺 、 智積 養水などの所在地 ^ 旧三田藩は現米1万5290石(表高3万6000石)、旧綾部藩は現米7160石(表高1万9500石)でいずれも現米5万石未満の旧小藩に該当
- 船上山城
- 。船上山の険しい断崖を利用した典型的な山城である。 船上山城のある船上山は大山の北東に伸びる稜線上にあり、古くは平安仏教の山岳霊場で 智積寺 という寺院があった。この 智積寺 がのちに寺院城郭と化したらしい。 南北朝時代初めの1333年(正慶2、元弘3)、伯耆の豪族・名和長年が隠岐を脱出した後醍醐天皇をこの
- 新義真言宗
- しかし混乱の中、一部の僧侶は奈良の長谷寺や高野山に避難し難を逃れた。関ヶ原の戦いのあと、高野山に逃れた一派は徳川家康から豊臣秀吉ゆかりの 寺 を与えられ、京都東山に 智積 院を再興することになる。結果、豊臣秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることと
- 智積寺 (鳥取県琴浦町)
- 智積寺 (ちしゃくじ)は、鳥取県東伯郡琴浦町竹内にある天台宗の寺院。 享禄3年(1530年)に創建された寺院。これ以前は金石 寺 (こんじゃくじ)という名称で船上山山頂付近にあったとされ、金石 寺 本堂には、船上山合戦の際後醍醐天皇が立て籠もったと伝えられる。 承和6年(839年)鋳造で伯耆国金石 寺
- 大正大学
- 江戸時代初期 - (浄土宗) 関東の有力な檀林18ヶ 寺 により自然発生的に関東十八檀林が成立。 1602年(慶長7年) - (真言宗智山派) 玄宥により 智積 院が再興される。学山としての環境は 智積 院第3世・日誉の時代に整う。 1624年~1645年(寛永年間) - (天台宗)
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