伝法院
基本情報
- 所在地
- 〒640-0305
和歌山県和歌山市明王寺190-1
- TEL / FAX
-
073-478-1459
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- わかやま電鉄貴志川線 山東 1320m
- わかやま電鉄貴志川線 伊太祁曽 1530m
- わかやま電鉄貴志川線 吉礼 2500m
- 周辺情報
- 四季の郷公園 近隣公園
- 矢田みかん狩園 果実狩り
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- 浅草寺
- する。毎年2月8日にこの堂で針供養が行われることで知られる。 鎮護堂 本坊 伝法院 の鎮守で、 伝法院 通りを西方に向かって歩いた右手に入口がある。 伝法院 は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されており、ここから柵越しに 伝法院 の回遊式庭園が瞥見できる。ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明
- 真言宗智山派
- ともと根来寺の塔頭であった。根来寺の前身である大 伝法院 は覚鑁が大治5年(1130年)に高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大 伝法院 を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代にこの大 伝法院 の塔頭として真憲坊長盛が学問所として建立したものである。
- 新義真言宗
- 望む保守派(本寺方・金剛峯寺方)と覚鑁派(大 伝法院 方)による決定的な対立が発生。その結果、覚鑁派は高野山を去り、大 伝法院 の荘園であった岩手荘の豊福寺に拠点を移す。根来での覚鑁の活動がここにはじまる。 1143年(康治2年)の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大 伝法院 を高野山に戻したが確執は収拾せず、145年後
- 根来寺
- 頂の三尊。開山は覚鑁(興教大師)。詳しくは一乗山大 伝法院 根来寺と称する。 平安時代後期の高野山の僧・覚鑁が、1130年(大治5年)に高野山内に小 伝法院 を創建したことに始まる。1131年(天承元年)、鳥羽上皇により勅願所とされたのを機に、院号を大 伝法院 と改めた。
- 覚鑁
- 寺戒壇院で受戒し、名を覚鑁と改める。その後、高野山へ入り、青蓮・明寂のもとで学ぶ。 35歳で古式な真言宗の 伝法 の悉くを灌頂し、空海以来の才と称されると、大治5年(1130年)に高野山内に 伝法院 を建立する。そして鳥羽上皇の病を治すとこれまで以上の帰依を受け、上皇が建てた北向山不動院の開山にもなり、荘園を寄進されるなど手厚く保護された。
- 真言宗
- 、教学(教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。 11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大 伝法院 を創建、教学の振興のために大 伝法 会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金
- 法相宗
- 8世紀から9世紀にかけて法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に 伝法院 を創建、その一流は 伝法院 門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。 元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸
- 智積院
- 智積院は、もともと紀伊国根来(現・和歌山県岩出市根来)にある大 伝法院 (現・根来寺)の塔頭であった。大 伝法院 は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大 伝法院 を根来に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大 伝法院
- 開化探偵帳
- 明治7 - 8年の文明開化期に、チョンマゲを切り落とし「ざんぎり頭」となって、背広に身を包んだ元武士の新宮寺京介が、警視庁(内務省管轄)に奉職、浅草 伝法院 屯所の探索方(現在の刑事)として、上司や仲間、町の人たちとともに浅草を舞台に活躍する。 原作者の島田一男は、このドラマのために警視庁に日を置かず通
- 大毘盧遮那成仏神変加持経
- ^ 山本匠一郎 2012, p. 88. ^ 山本匠一郎 2012, p. 78. ^ 小林靖典「『大日経』の講 伝 について : 我々は何を伝えていくべきか」『現代密教』第26号、智山 伝法院 、2015年3月、15-31頁、CRID 1521699230218418816、ISSN 09160310。
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