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幻住庵

基本情報

所在地
〒520-0835
滋賀県大津市別保2丁目5-45
TEL / FAX
077-537-1961
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業種
寺院
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幻住庵
の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「 幻住庵 記」を著した。 元は曲水の伯父 幻住 老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社の境内にある。「 幻住庵 」の名前の由来も 幻住 老人の名に由来する。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現した
八月の庵―僕の「方丈記」体験
『八月の 庵 ―僕の「方丈記」体験』(はちがつのいおり ぼくのほうじょうきたいけん)は、村上春樹のエッセイ。 『太陽』1981年10月号の特集「遁世は可能か 『方丈記』を読む」のために書かれた。現在に至るまで単行本にも『村上春樹全作品 1979~1989』(講談社)にも収録されていない。 松尾芭蕉の 幻住庵
中峰明本
古先印元(1295年 - 1374年) 遠渓祖雄(1286年 - 1344年) 復 庵 宗己(1280年 - 1358年) 無隠元晦(? - 1358年) 明叟斉哲(? - 1347年) 『 幻住庵 清規』 『一華五葉』 『東語西語』 『 幻住 家訓』 『天目中峰和尚広録』 「仏慈円照広慧禅師中峰和尚行録」 「智覚禅師法雲塔銘」
菅沼曲水
幻住庵 記」に「勇士曲水」との記述を残しているように、清廉な人柄であったようである。 「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄3年(1690年)、近江膳所を初めて訪れた。その際に避暑地の住処として、伯父である菅沼定知の別荘を手入れし提供したのが 幻住庵
猿蓑
四季発句を冬・夏・秋・春の順番に収め、坤には巻5として「鳶の羽も」「市中は」「灰汁桶の」「梅若菜」の四歌仙、巻6として芭蕉俳文「 幻住庵 記」と向井震軒による「後題」、 幻住庵 記訪問客や文音の発句35から成る「几右日記」を収め、内藤丈草の跋文を添える。発句部は382句、入集者は118名で、野沢凡兆41句
松尾芭蕉
に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、 幻住庵 滞在時の記録『 幻住庵 記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。 芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉 庵 へ移り 住 んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間 庵
禅林墨跡
中峰明本は、高峰原妙の法嗣、元代一級の高僧である。放浪して居所を定めず、自ら 幻住 (げんじゅう)と称し、いたるところに 幻住庵 を構えた。能書の趙孟頫が深く中峰に帰依していたことは、趙孟頫の『与中峰明本書』(尺牘)によって知られるが、中峰が呉中(現在の蘇州市)に 庵 を構えるとき、馮子振が泥を煉り、趙孟頫が運搬し、中峰が壁を塗ったという説話が伝えられている。
近江蕉門
貞享2年(1685年)入門、初期近江蕉門の一人。素行悪く茶入れ事件などから勘気を蒙むり、後許される。 菅沼曲水 - 膳所藩の重役、36俳仙。小 庵 ・ 幻住庵 を提供するなど膳所における師の経済面を支援した。 高橋怒誰 - 菅沼曲水の実弟。 河合智月 - 貞享5年(1688年)入門、36俳仙。乙州の母、大津滞在中の芭蕉の世話をした。
俳文
記述された文章、またはその作品。松尾芭蕉が『猿蓑』編纂の際、句集と文集を集めることを企図したが実現せず、『猿蓑』に芭蕉自身が記した『 幻住庵 記』が収められた。この『 幻住庵 記』が俳文として公開された最初の作品とされる。 中国の唐代から宋代にかけての「古文」を範とする。日常身辺に取材した随筆風の内容、和漢
幻住派
幻住 派(げんじゅうは)は中国の臨済宗楊岐派の禅僧・中峯明本( 幻住 道人)の系統のことで、 幻住 道人が 庵 居する室名を 幻住庵 と称したことから、この名前が付いた。 鎌倉時代末期に日本に伝わり、元々は隠遁的な性格の派であったが、戦国時代に入る頃からは勢力を広げ、関東一円に展開するまでになった。
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