東門院
基本情報
- 所在地
- 〒524-0022
滋賀県守山市守山2丁目2-46
- TEL / FAX
-
077-582-2193
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR琵琶湖線 守山 730m
- JR琵琶湖線 栗東 2280m
- JR琵琶湖線 野洲 3170m
- 周辺情報
- 東門院(守山寺) 仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)
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- 禎子内親王
- 母は摂政藤原道長女・皇后妍子。 院 号は陽明 門院 (ようめいもんいん)。所生の子女に、尊仁親王(後三条天皇)、伊勢斎宮良子内親王、賀茂斎院娟子内親王がいる。『大鏡』ははじめの二人の女院である東三条 院 や上 東門院 にまさるとも劣らない彼女(一品宮后に立たせたまふ)の未来について
- 藤原彰子
- あきこ/しょうし、988年(永延2年)- 1074年10月25日(承保元年10月3日))は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。 院 号は上 東門院 (じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。 女房には、『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で
- 勧修寺晴子
- 1620年3月21日(元和6年2月18日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。誠仁親王(正親町天皇の第 5皇子)の女房。後陽成天皇の生母(国母)。女院。 院 号は新上 東門院 (しんじょうとうもんいん)。 父は勧修寺晴右。母は従三位・粟屋元子(粟屋元隆の子)。勧修寺晴豊・万里小路充房・正親町三条公仲室らの姉妹。子に後
- 女院
- 女院の名称(以下女院号)は、天皇や上皇の 院 号とは異なり生前の時点で 院 号定(いんごうさだめ)により決定される。最初の二人の女院に即して見ると、東三条 院 の称号は東三条第によって、上 東門院 の称号は上 東門 第(土御門第の別名)(大内裏の上 東門 は別名を「土御門」といい、そこに通じる道路は土御門大路または上 東門
- 平滋子
- 門院 」、御所である法住寺殿にちなんだ「七条 院 」という意見も出された。兄の時忠は東三条 院 ・上 東門院 が吉例であることから御所号に「東」の字を付けて「東七条 院 」、藤原隆季は同じく東三条 院 の例を追い、 院 御領の三条室町殿を滋子の御領に准じて「新三条 院 」を提案した。議論の結果、多くの賛同を集めた建春 門院
- 章子内親王
- 院 号宣下を受けて以後二条 院 と称する。長治2年(1105年)崩御。享年80。 後一条天皇の第一子に生まれ、期待された男子ではなかったが両親に非常に鍾愛された。温順な性格の美しい皇女であったという。両親亡き後は祖母(母方では伯母)上 東門院
- 九条竴子
- 院 号宣下を被り藻璧 門院 を号す。同年(改元して天福元年)9月18日、皇子を死産したうえ自身も落命した。 短い生涯の中で竴子自身は特に和歌の作品は残していないが、彼女のもとに出仕していた女房には「己が音の少将」として知られる藻璧 門院 少将や藻璧 門院 但馬、さらには藤原定家女の後堀河 院
- 後冷泉天皇
- 東門院 の庇護下に入る。 長元9年(1036年)2月22日、親王宣下。 長暦元年(1037年) 7月2日、元服、三品に叙される。 8月17日、皇太子となる。後朱雀天皇即位から経った時間は丸一年(その間に敦康親王王女嫄子女王が敦康の継母上 東門院 の承認のもと、先代から続く関白藤原頼通の養女として立后)。
- 馨子内親王
- 親王を特に可愛がり、斎院にも時折行啓した。 その後は、姉と共に祖母(伯母でもある)上 東門院 彰子に引き取られて養育された。永承6年(1051年)、23歳で18歳の皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内。これも上 東門院 の意向だったが、尊仁親王とその生母禎子内親王は先帝後朱雀天皇の時代から藤原頼通らと対
- 嘉喜門院
- 嘉喜 門院 の作は『嘉喜 門院 集』・『新葉和歌集』に見ることができる。歌風はオーソドックスな二条派で、南朝の衰運を反映し、哀愁を帯びたものが多い。嘉喜 門院 は様々な人物と贈答歌を交わしており、『嘉喜 門院 集』からは、本人17首および長慶天皇4首と新宣陽 門院 1首の計22首が『新葉和歌集』に採録されている。
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