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大覚寺

基本情報

所在地
〒527-0152
滋賀県東近江市大覚寺町709
TEL / FAX
0749-46-0309
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業種
寺院
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大覚寺
大覚寺 (だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗 大覚寺 派の大本山の寺院。山号は嵯峨山。本尊は不動明王を中心とする五大明王。開山は恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨
真言宗大覚寺派
真言宗 大覚寺 派(しんごんしゅうだいかくじは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。本山は 大覚寺 。 宗祖 弘法大師(秘鍵(ひけん)大師) 保寿院流 大覚寺 紋 大本山  大覚寺 (京都市右京区) 準大本山  大山寺(神奈川県伊勢原市) 別格本山 
大覚寺統
大覚寺 統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の 大覚寺
後宇多天皇
日本の第91代天皇(在位:1274年3月6日〈文永11年1月26日〉- 1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉)。諱は世仁(よひと)。 大覚寺 統の天皇。中世日本最高の賢帝の一人で、対立する持明院統の花園天皇からも「末代の英主」と称えられた。第一次院政期に訴訟制度改革に取り組み、大きな業績
南朝 (日本)
)は、日本の南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした 大覚寺 統の後醍醐天皇に属する朝廷。1337年(和暦との対応上は1336年)から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。
真言宗
1895年(明治28年)6月、真言律宗(西大寺)に対して独立が認可される。 1900年(明治33年)9月、真言宗高野派(金剛峯寺)・真言宗御室派(仁和寺)・真言宗 大覚寺 派( 大覚寺 )・真言宗醍醐派(醍醐寺)・新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)・律宗に対して独立が認可された。
持明院統
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の皇子である第89代後深草天皇の子孫で、 大覚寺 統に対比する。この持明院統が、のちの北朝に繋がる。 鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ(邸宅は持明院殿と称される)、基
後二条天皇
大覚寺 統であり、後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具(約280年ぶりに准大臣に進んで儀同三司と自称しえた有能な人物)の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。後宇多天皇は置文として、後醍醐天皇は中継ぎにすぎず、後二条天皇の嫡流こそが 大覚寺
南北朝時代 (日本)
含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・ 大覚寺 統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で
右京区
秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。 嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の 大覚寺 )を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。 戦国 戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中
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