慈敬寺
基本情報
- 所在地
- 〒520-1111
滋賀県高島市鴨2099
- TEL / FAX
-
0740-36-0561
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR湖西線 安曇川 1630m
- JR湖西線 近江高島 2560m
- JR湖西線 新旭 5010m
- 周辺情報
- 高島歴史民俗資料館 各種資料館
ウィキペディア検索
- 滋賀県道295号市場野田鴨線
- 滋賀県道23号小浜朽木高島線 高島市立朽木中学校 高島市役所 朽木支所 桃源院 朽木オートキャンプ場 グリーンパーク想い出の森 朽木スキー場 高島市立高島保育所 慈敬寺 高島市立歴史民俗資料館 ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1979, p. 107. ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会
- 堅田 (大津市)
- 寺 は大津の門徒を率いていた本願寺10世証如の後見人蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父でもある)の讒言によって、3度にわたる破門を受けて、門徒の指導権も所領・財産も悉く蓮淳傘下の称徳 寺 (後の 慈敬寺 )に奪われてしまうことになった(堅田本福 寺 破門事件参照のこと)。その結果、 慈敬寺
- かむながらのみち
- かむながらのみちは、1999年(平成11年)5月5日に横浜市磯子区岡村の地において立教された在家の宗教法人。教主は北川 慈敬 、理事長は北川大成。 教主:北川 慈敬 (きたがわ じけい) 1937年 - 大阪府生まれ 1948年 - 解脱会に入会 1958年 - 布教活動に入る 1999年2月 - 解脱会を離れる
- 慈敬寺
- 慈敬寺 (じきょうじ)は近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市)にあった浄土真宗寺院。別名・堅田御坊。同国高島郡へ移転の後に分裂した。 文明3年(1471年)、本願寺8世蓮如が北陸地方に向かう際に堅田に小堂を建てたのが由来とされる。明応3年(1494年)に再興され、彼の6男蓮淳が他 寺
- 実賢
- 実賢(じっけん、延徳2年(1490年)- 大永3年8月3日(1523年9月12日)は、室町時代後期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。堅田称徳 寺 ( 慈敬寺 )住持。本願寺第8世法主蓮如の9男。母は畠山政栄の娘蓮能。妻は蓮誓の娘妙慶。子に実誓。諱は兼照。宰相。 延徳2年(1490年)、本願寺8代目法主蓮
- 教如
- 慈敬寺 証智・教行 寺 証誓が主な支持者で、彼等は顕如から破門されても教如に従い続け、流浪の旅にも同行したことが伝えられている。更に流浪中の教如から祖父証如の御影を下付された三河の門徒、親鸞の御影を下付された美濃安養寺など、大坂拘様の頃から教如を支持した多くの門徒や 寺
- 明宗 (僧)
- 寺 (後の 慈敬寺 、蓮淳が後見人だった)が本福 寺 の門徒を引き抜こうとして本福 寺 が阻止しようとした事を咎め、再び破門した。これによって本福 寺 は代々の財産も門徒も悉く失ってしまった。 そして、天文元年(1532年)に細川晴元によって山科本願寺が焼き討ちにされた(山科本願寺の戦い)際に本福 寺
- 享禄・天文の乱
- 寺 と改称した(後年に 慈敬寺 と再び改名する)。実賢の死後、同寺の後見もしていた蓮淳は大永7年(1527年)称徳 寺 が本福 寺 の門徒を引き抜こうとして一家寺院の本福 寺 がそれを阻止しようとしたのは「一門一家制」、ひいては本願寺そのものへの反逆であるとして本福 寺 は再度破門された。これによって本福 寺
- 狐島吉次
- 5年)5月、雑賀の年寄衆である吉次と岡了順、湊高秀、松江定久は、本願寺の法主・顕如に対して馳走する旨を誓った起請文を、本願寺の一門一家衆寺院である 慈敬寺 および常楽寺に差し出している。 天正5年(1577年)2月から3月にかけ、雑賀は織田信長により攻められ、雑賀衆は降伏した(紀州征伐)。同年3月15
- 空誓
- 寺 10世。 父は本願寺中興の祖である蓮如の孫・堅田 慈敬寺 4世実誓、母は権大納言四条隆永の娘。治部卿を称した。永禄4年(1561年)本證 寺 9世玄海が加賀一向一揆に加わるために遠征して戦死したため、顕如の猶子として玄海の娘婿となり、17歳で本證 寺 住持を継いだ。翌年には院家に列し、大僧都となった。
企業データ
PAGE TOP