慶田寺
基本情報
- 所在地
- 〒633-0074
奈良県桜井市大字芝753
- TEL / FAX
-
0744-42-6209
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
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- 織田長定
- 、従五位下豊前守に叙任する。寛文4年(1664年)、駿府加番を命じられる。 寛文12年(1672年)閏6月4日、戒重において死去、享年57。法号は保善院殿高巌亮照大居士。墓所は奈良県桜井市芝の 慶田寺 。 子女は1男1女。 父:織田長政 母:不詳 正室:金森重頼娘 生母不明の子女 男子:織田長明 女子
- 織田長宇
- 文政9年(1826年)3月27日に隠居し、三男の長恭に家督を譲る。 天保10年(1839年)5月25日、芝村において死去、享年74。墓所は奈良県の 慶田寺 。蹴鞠の名手であったという。 子女は7男6女。なお、竹尾善筑は、その著書『即事考』に長宇の娘が家来と駆け落ちした事件を記している。 父:織田長教 母:不詳
- 織田長明
- 月2日に隠居し、養嗣子・長清に家督を譲った。元禄6年(1693年)11月4日、幕府から戒重に移住する許可を得る。 元禄12年(1699年)7月10日、戒重にて死去した。享年40。墓所は奈良県桜井市芝の 慶田寺 。 正室、子女ともになし。 父:織田長定 母:不詳 養子 男子:織田長清 - 織田長頼の三男
- 織田長政 (大名)
- 万治2年(1659年)12月23日に隠居し、長男・長定に家督を譲る。以後、ト斎と号する。 寛文10年(1670年)2月18日死去、享年84。奈良県の 慶田寺 に葬られる。 子女は2男2女。 父:織田長益 母:不詳 正室:松平重直娘 生母不明の子女 長男:織田長定 次男:織田政時 長女:大田原政清正室 次女:織田貞置室
- 織田長清
- 後守に叙任する。正徳4年(1714年)2月13日に隠居し、三男の長弘に家督を譲る。 享保7年(1722年)10月7日死去、享年61。墓所は奈良県の 慶田寺 。 太田守一に『織田真紀』を編纂させるなど、文教面での功績が目立つ。なお、『土芥寇讎記』には「長根(=長清)、生得利発ナリ。養父秀一(=長明)、若
- 織田長猷
- 月30日、従五位に叙任する。明治9年(1876年)8月31日、慶應義塾に入校する。入校に際しての保証人は織田信及であった。明治13年(1880年)6月、広瀬神社宮司となるが、同月30日に29歳で死去した。墓所は奈良県の 慶田寺 。 妻の己酉子は夫の死後、離籍した。子女はいない。弟長純が家督を相続した。
- 芝村藩
- で芝村藩は廃藩となった。藩領のうち、摂津国島下郡における領地は大阪府、大和山辺郡と式上郡は奈良県にそれぞれ編入された。 代々の墓所は桜井市内にある 慶田寺 であり、有楽の分骨の墓標もある。なお、織田氏の諸藩では他に、織田信雄の系統で天童藩、柏原藩が、有楽の系統では上述の柳本藩が、明治維新まで存続した。
- 桜井市
- 木心乾漆十一面観音立像が国宝 平等寺 玄賓庵-木造不動明王坐像が重要文化財 慶田寺 ‐織田有楽斎墓所 石位 寺 - 石造浮彫伝薬師三尊像(忍阪区管理)が重要文化財 山の辺の道 初瀬街道 磐余(いわれ)の道・山田道 多武峯道 忍阪(おっさか)・粟原道 山 田寺 跡(特別史跡)出土物の東回廊(飛鳥資料館展示)および東大谷日女神社石灯篭が重要文化財
- 芝村陣屋
- と五男尚長に分知させ、四男長政の系統が芝村藩として存続するが、陣屋が芝村に移るのは第7代藩主輔宜の代の延享2年(1745年)である。 長政以降第10代長易の代に明治維新を迎えている。 陣屋址は桜井市立織田小学校の敷地となり、周囲に石垣が残存している。また、陣屋南門が 慶田寺 山門として移築されている。
- 平等寺 (桜井市)
- 前の平等寺住職・覚信和尚と町内有志18名が塔頭の一部を境内に移し、本尊十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等を守り、曹洞宗 慶田寺 住職・梁天和尚が翠松庵の 寺 号を移し曹洞宗に改宗し法灯を護持した。 1977年(昭和52年)、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。丸子孝法の16年間の托鉢によって現在は伽藍も復元されている。
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