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慈円寺

基本情報

所在地
〒691-0012
島根県出雲市西代町90
TEL / FAX
0853-62-3554
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寺院
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慈円
慈円 (じえん、旧字体: 慈 圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、歌人。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は 慈 鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの
青蓮院
慈円 の後継者を巡る争いをきっかけに青蓮院内に2つの派閥が形成され、後醍醐天皇の仲裁で第16世門主である 慈 道法親王が第17世門主の尊 円 法親王に門跡の地位を譲るまで100年以上も門主の地位を巡る内紛が続いている。 歴代住職のうち、第3世門主の 慈 鎮和尚 慈円 は歴史書『愚管抄』の著者として著名である。 慈円
天台座主
称であったが、3世の円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職となり、明治4年(1871年)まで続いた。1人で複数回任命されることも多く、 慈円 や尊 円 法親王などは4度、天台座主に就いている。 中世になると、摂家門跡、宮門跡の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮院・三千院(天台三門跡)から法親王
隆寛
幼い頃に比叡山に登って延暦 寺 に入り、伯父の皇 円 に師事して天台教学を学んだ。また、皇 円 の法兄範源にも師事して、椙生流の相伝を受けた。さらには、天台座主 慈円 にも師事した。 慈円 との交渉は、和歌集『拾玉集』にもみられ、隆寛の実子聖増が 慈円 の弟子になったことも『尊卑分脈』では伝えている。
宝塔
石山寺石造宝塔(滋賀県大津市) 鎌倉時代中期 現状高さは2mほどだが元は3mほどであったと考えられる。 安養寺 慈円 僧正宝塔(京都市・重要文化財) 鎌倉時代中期 高さ約3m、塔身に多宝・釈迦二仏を刻む。   石山寺目かくし岩(滋賀県)平安時代 六波羅蜜 寺 阿古屋塚(京都府)鎌倉時代 石田茂作「塔-塔婆・スツーバ」日本の美術77 1972 至文堂
善峯寺
宮内庁の管理下にある。 覚快法親王の墓 - 鳥羽天皇皇子。 道覚法親王の墓 - 後鳥羽天皇皇子。 慈 道法親王の墓 - 亀山天皇皇子。 尊 円 法親王の墓 - 伏見天皇皇子。 尊道入道親王の墓 - 後伏見天皇皇子。 慈円 和尚の墓 山門(仁王門) - 正徳6年(1716年)建立。三間一戸の楼門。楼上の文殊菩薩と脇侍二天は寺宝館に安置。
真性
慈円 から青蓮院を譲られる約束を受けるが、 慈円 と不仲になって青蓮院を去っている。1230年(寛喜2年)、彼は城興 寺 で咳病によって没した。 [脚注の使い方] ^ 稲葉伸道 著「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎 編『延暦 寺
道覚法親王
入道親王(どうかくにゅうどうしんのう)とも。 1208年(承元2年)親王宣下を受けて朝仁と称した。1216年(建保4年)出家して 慈円 ・ 慈 賢・真性などに天台教学を学んだ。 慈円 は青蓮院門跡を道覚に譲る予定であったが、承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流されると、1221年(承久3年)に青蓮院を退出せざるを得なかった。
門跡
寺 、腰掛如来。上京区真盛町745、天台真盛宗) 真言宗 妙心寺 臨済宗 岳松山大聖寺(御寺御所) 西山寳鏡 寺 門跡(百々御所) 曇華院(竹御所、竹之御所、竹の御所) 円 成山霊鑑寺(谷御殿、鹿ヶ谷比丘尼御所) 普門山圓照寺(山村御所) 聖明山林丘 寺 (音羽御所) 広徳山 慈 受院(薄雲御所) 宝 慈 院(千代野御所)
良快 (僧)
慈円 や尊忠、覚什に学び、 慈円 から青蓮院門跡を譲られる。ただし、この継承は本来の継承者であった道覚法親王(後鳥羽上皇の皇子)が承久の乱の影響で青蓮院を退出せざるを得なかったことによるもので、道覚法親王はこれを認めず 慈円 ・良快の没後に法親王と 慈 源(良快の弟子・九条良経の孫)の間で紛争となっている。
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