多聞院
基本情報
- 所在地
- 〒732-0817
広島県広島市南区比治山町7-10
- TEL / FAX
-
082-261-1764 / 082-263-5288
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 広島電鉄皆実線 比治山下 50m
- 広島電鉄皆実線 段原一丁目 400m
- 広島電鉄皆実線 比治山橋 470m
- 周辺情報
- 比治山下駅(広島電鉄) 駅(路面鉄道)
- 比治山公園 レジャー公園
- 広島市現代美術館 美術館
- 広島市まんが図書館 公共図書館
- 比治山幼稚園 幼稚園
- 広島比治山本町郵便局 中央、普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局
- 比治山通り 道路名
- 三渓会川堀病院 病院(動物は除く)
ウィキペディア検索
- 多聞院
- 奈良県奈良市にある興福寺の塔頭のひとつ 多聞院 - 愛媛県西条市にある真言宗御室派の寺院 → 王至森寺 多聞院 (広島市) - 広島県広島市にある真言宗御室派の寺院 多聞院 英俊 - 戦国時代の僧侶で興福寺 多聞院 主 → 英俊 多聞院 日記 多聞 天(毘沙門天) 多聞 で始まる項目の一覧 ^ a b c “全国天台宗寺院
- 多聞院日記
- 『 多聞院 日記』(たもんいんにっき)は、奈良興福寺の塔頭 多聞院 において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である。
- 多聞院 (広島市)
- 多聞院 (たもんいん)は、広島県広島市南区にある寺院。比治山西麓の登山道入口に位置する。境内に頼家一族の墓所などの史跡、被爆建物である鐘楼があることで知られる。 開基 この寺は、治承年間(1177年 - 1181年)高倉天皇の勅願により、隠渡(現在の呉市音戸町)に建立されたのに始まると伝えられる。そ
- 毘沙門天
- 塩野毘沙門堂(山形県米沢市) お堂の下に井戸がある珍しい構造。 関東 大岩山毘沙門天 多聞院 最勝寺(栃木県足利市) 悪口(あくたい)祭りで有名。信貴山・鞍馬山と同木の日本三仏とされる毘沙門天を祀る。足利七福神巡りの中のひとつ。真言宗豊山派。 珍珠山 多聞 寺 吉祥院(埼玉県川口市)
- 多聞山城
- 多聞 山城(たもんやまじょう)は、奈良県奈良市法蓮町の現・奈良市立若草中学校の敷地にあった松永久秀、松永久通、塙直政の居城となった日本の城(平山城)。 多聞 城とも呼ばれる。 松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山に築城された。城には 多聞 天を祀り 多聞
- 筒井順慶
- かつ)、のちに藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和国郡山城主。事績については『 多聞院 日記』に詳らかに記述されている。 大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。筒井氏は興福寺一乗 院 に属する有力宗徒が武士化し、父親順昭の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に戦国大名化していた。母は山田道安の娘・大方殿。
- 英俊
- 文禄5年(1596年))は、戦国時代の僧侶。興福寺 多聞院 主。号は長実房。 多聞院 英俊と呼ばれることが多い。 永正15年(1518年)に大和国の豪族で興福寺大乗 院 方坊人の十市氏の一族として、父・盛眼、母・某の間に生まれた。享禄元年(1528年)に11歳の時に興福寺妙徳 院 へ入ると、天文2年(1533年)には妙徳院
- あげまん (映画)
- 杉山とく子 上客である 多聞院 が、踊る芸者のナヨコを見初めて「彼女を水揚げしたい」との申し出を聞く。 多聞院 の女房 演 - 横山道代 多聞院 の死後、リンに付き添ってナヨコのもとに向かい夫の遺言や遺産の受け渡しを見守る。 多聞院 の坊さん仲間 演 - 坊さん甲(北見治一)、坊さん乙(久保晶) 多聞院
- 東大寺大仏殿の戦い
- 多聞 山城に移動した。 その間、義継が久秀に寝返ったことに対して三人衆は大和へ入国。4月18日に三人衆軍と筒井軍は連合軍となって奈良周辺に出陣し、大和の情勢は緊張状態が高まっていった。この時の三人衆・筒井連合軍の兵力は『 多聞院
- 松永久秀
- り、4月頃には弾正小弼から山城守に補任された。 4月3日、『 多聞院 日記』では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。 8月20日、『 多聞院 日記』では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。 天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、 多聞 作りを創始した人物とされている。城門と櫓を一体化させ防御力を
企業データ
PAGE TOP