大寧寺
基本情報
- 所在地
- 〒759-4103
山口県長門市深川湯本1074
- TEL / FAX
-
0837-25-3469
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR美祢線 長門湯本 1120m
- JR美祢線 板持 3070m
- JR美祢線 渋木 3610m
- 周辺情報
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- 大寧寺
- 大寧寺 (たいねいじ)は、山口県長門市にある曹洞宗の寺院。山号は瑞雲萬歳山(ずいうんばんぜいさん)。正式名は瑞雲萬歳山 大寧 護国禅 寺 と称する。現在(2023年)の住職は元山口県立大学学長の岩田啓靖。 応永17年(1410年)に大内氏一族で長門国深川城主の鷲頭弘忠が、能登国總持寺の禅僧石屋真梁を招聘し
- 大寧寺の変
- 大寧寺 の変(たいねいじのへん)は、天文20年8月28日 - 9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられた政変である。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。
- 1551年
- 1551年のカレンダー(ユリウス暦) 9月28日 - 30日(天文20年8月28日 - 9月1日) - 大寧寺 の変。周防の戦国大名・大内義隆が、守護代・陶晴賢たちの軍勢に攻められ、逃亡先の長門 大寧寺 にて自害。 4月8日(天文20年3月3日) - 織田信秀、尾張の戦国武将。織田信長の父。(* 1511年)
- 天文 (元号)
- 二階崩れの変。豊後守護・大友義鑑、家臣に襲撃され、重傷を負う。2日後に死去。 20年8月28日 - 9月1日(1551年): 大寧寺 の変。周防の戦国大名・大内義隆が、守護代・陶晴賢たちの軍勢に攻められ、逃亡先の長門 大寧寺 にて自害。大内氏滅亡。 24年10月1日(1555年10月16日)、厳島の戦い。安芸国厳島で毛利元就が
- 二条尹房
- 同20年(1551年)8月、義隆の重臣陶晴賢の謀反事件( 大寧寺 の変)に遭遇。内藤興盛に使者を送って和睦斡旋を懇願するも聞き入れられず、良豊や三条公頼、持明院基規、大宮伊治とともに陶軍の手で殺害された。享年56。墓所は山口県長門市 大寧寺 にある。 父:二条尚基(1471-1497) 母:家女房 妻:九条経子
- 毛利就芝
- となる。桜井作右衛門に命じ、本山岬を整備し、番所を設置する。また、岬東岸の東大泊入江の開作(干拓)を行った。 元禄8年(1695年)2月20日に死去した。享年27。家督は嫡男の広規が相続した。墓所は山口県長門市の深川 大寧寺 にある。 石川卓美著「防長歴史用語辞典」 『萩藩閥閲録』巻5「毛利宇右衛門」
- 三条公頼
- の祖父・三条公敦が周防の大内家を頼り下向している。しかし、公頼は天文20年(1551年)9月1日、大内家臣の陶隆房の反乱( 大寧寺 の変)に巻き込まれ殺害された。墓所は山口県 大寧寺 。 公頼には息子がおらず三条家は断絶となるが、後に分家筋から三条実教(正親町三条公兄の子)、続いて三条実綱(三条西実枝の子)が三条家を相続した。
- 陶晴賢
- 感じた武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。 8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門 大寧寺 において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男の義尊も殺害した(義尊については、殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある。)。そ
- 冷泉隆豊
- ^ 室町殿物語 - 国史研究会(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) ^ 大寧寺 ものがたり (9) 義隆長門に奔る - 大寧寺 公式サイト ^ 山口県史跡 大寧寺 境内墓地整備基本計画 B群 経蔵跡・遊仙窟 - 大寧寺 公式サイト ^ 周防・冷泉氏館 - 城郭放浪記 萩藩閥閲録(冷泉家譜)
- 内藤興盛
- 。文治派と武断派の対立が深まるなか、興盛は義隆の嫡子義尊に家督を譲り隠居するよう勧めるも拒否されている。 天文20年(1551年)の陶隆房の謀反( 大寧寺 の変)の時は消極的に隆房を支持し、義隆からの和睦の仲介要請を拒否したが、直後に隠居した。隠居には、大内氏の継承を巡る陶隆房との意見の相違があったと
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