法雲院
基本情報
- 所在地
- 〒753-0301
山口県山口市仁保上郷一ノ瀬1383
- TEL / FAX
-
083-929-0695 / 083-929-0735
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR山口線 篠目 4810m
- JR山口線 仁保 5540m
- JR山口線 長門峡 7060m
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- 法雲院
- 末寺の跡地に直滋を葬って小さな堂を建立したが、彦根藩に憚るところがあった。そこで、資慶が祖父である烏丸光広をここに改葬して、寺の名前も祖父の 法 名である「 法雲院 」と名付けた(『太秦村誌』)。後に父の烏丸光賢もここに改葬したという(『京羽二重織留』)。 以降、烏丸家および分家筋の裏松家・勘解由小路家の菩提寺となり、現在に伝わっている。
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- 池上本門寺
- 法雲院 開基日等。延寿坊と合併後廃絶。 延寿坊 法雲院 と合併後廃絶。 樹下庵 1748年開創。現在は廃絶。 戒善坊 開創年未詳。現在は廃絶。 詮量坊 開創年未詳。現在は廃絶。 住行坊 開創年未詳。現在は廃絶。 長延坊 開創年未詳。現在は廃絶。 明静坊 開創年未詳。現在は廃絶。 法 性坊 開創年未詳。現在は廃絶。
- 烏丸光広
- 昇進は見られず、寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られたが、寛文3年(1663年)7月洛西太秦の 法雲院 に移された。 法 名は 法雲院 泰翁宗山。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。 後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下
- 山内豊昌
- 父:山内忠豊(1609-1669) 母:長姫 - 長光 院 、池田利隆の娘 正室:仙寿 院 - 松平定頼の四女 側室: 法雲院 - 三条公富の娘 生母不明の子女 女子:多代 - 国、高寿 院 、山内豊房正室 女子:玉姫 - 京極高豊正室 女子:阿部正邦正室 女子 養子 男子:山内豊房(1672-1706)
- 池田光仲
- 側室:琴姫(円寿 院 、不明 - 元文2年(1737年)) 六男:池田清勝(1686年 - 1696年) 旗本池田政弘の末期養子となるも夭逝 生母不明の子女 三男:九鬼隆律(1657年 - 1686年) 摂津三田藩主 長女:厳姫(宝明 院 、1658年 - 1660年) 次女:竹姫(祥 雲院 、1659年 -
- 立花鑑虎
- 鑑虎(たちばな あきとら) は、江戸時代前期の大名。筑後国柳河藩の第3代藩主。第2代藩主・立花忠茂の4男。母は伊達忠宗の娘で江戸幕府将軍・徳川秀忠の養女・ 法雲院 。正室は本多康長の娘。 幼名は勝千代、通称は大助。号は英山。諱は初名が直茂で、次いで廣茂、鑑茂、鑑虎とした。 正保2年11月15日(1646年1月1日)に江戸にて生まれる。
- 三条公富
- 年(1658年)まで務めた。寛文4年(1664年)に右大臣に任ぜられるも翌年辞職。寛文12年(1672年)に従一位を授与された。 父:三条実秀 母:日野資勝の娘 妻:勝 - 宗義成の娘 生母不詳の子女 男子:三条実治 女子: 法雲院 - 山内豊昌側室 女子:宗義真養女 - 永井直時継室 ^ 権大納言
- 烏丸家
- 皇の二代に仕えて宮廷文化の中の重きをなした。 江戸時代の石高ははじめ1500石、後に954石。江戸時代の家臣に雑掌として大沢家、牧家。菩提寺は常盤 法雲院 。 幕末・明治維新期の当主光徳は尊皇攘夷派の公卿として活躍し、明治維新後は新政府で参与、初代東京府知事等を務めた。
- 法雲寺 (兵庫県香美町)
- 養安院=養安院殿妙証日円大禅定尼 = 2代・山名豊政室(夫人) 法 名(3代・山名矩豊の母) 法雲 寺= 法雲院 殿桂岳道栄日潤大居士 = 2代・山名豊政法名(3代・山名矩豊の父) に由来するといわれる。 江戸時代以前の 法雲 寺に関する記録は無く、不詳ではあるが数々の資料などにより下記の歴史沿革が考えられている。 法雲
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