高野山興山寺
基本情報
- 所在地
- 〒875-0053
大分県臼杵市大字福良2366
- TEL / FAX
-
0972-63-0361
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR日豊本線 上臼杵 710m
- JR日豊本線 臼杵 2110m
- JR日豊本線 熊崎 3250m
- 周辺情報
- 上臼杵駅(JR) 駅(JR在来線)
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- 高野山
- 高野山 真言宗 金剛峯寺 大円院 高野山 大学 高野山 高等学校 高野 参詣道 高野山 町石道 高野 街道 - 大阪方面から続く 高野 参詣道。 ウィキメディア・コモンズには、 高野山 に関連するカテゴリがあります。 高野山 真言宗 総本山金剛峯寺 高野山 ・ 高野山 麓 - otent 高野山 宿坊協会 高野山 霊宝館 高野 町観光協会
- 高野山真言宗
- 1590年(天正18年)に木食応其が建立した 興山寺 を、1869年(明治2年)に合併して寺号を金剛峯寺とした。青巌寺は、建立当初は寺号を剃髪寺と称していた。 興山寺 は後陽成天皇より「 興山寺 」の勅額が下賜された勅願寺であった。 合併以前は、寺号の金剛峯寺は 高野山 全体を指す名称であった。現在のように特定の寺
- 金剛峯寺
- 興山寺 が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来 高野山 全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は 高野山 真言宗の管長が住む総本 山寺 院を意味するようになった。 1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また 高野山
- 木食応其
- その後、秀吉に協力して 高野山 に金堂や大塔を建立し、 高野山 の再興にあたった。天正18年(1590年)には 高野山 内に 興山寺 (廃寺)を開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請して勅額が掲げられるとともに、「 興山 上人」の号を賜った。「 興山寺 」の寺名は、 高野山 の「中興開山」から来ている。また、同年荒川荘に同名の 興山寺
- 高野山高等学校
- 私立古義真言宗聯合 高野 中学林と称す。第4学年を置く。 1909年 第5学年を置き、5年制確立さる。 1916年 私立真言宗 高野山 中学と改称、大学から分離独立する。 1919年 在家(檀信徒)の子弟の入学を許可する。 1923年 谷上の校舎竣成す。 興山寺 跡にあった旧校舎から移転する。 1924年 高野山 中学と改称する。
- 興山寺
- 繊細な獅子や牡丹彫刻、和歌山の 興山寺 国の登録有形文化財に ^ 和歌山県立博物館編 『特別展「没後四〇〇年 木食応其―秀吉から 高野山 を救った僧―」』 和歌山県立博物館、2008年。 ^ 福井文雄 「木食上人の生涯とその事蹟」 興山寺 (私家版)、1970年。 水原堯栄 「木食 興山 応其上人―安楽川 興山寺 を尋ねて橋本郷應其寺に詣ず―」
- 金峯山寺
- 高野山 と熊野三山、およびこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。 奈良県南部の吉 野山 に位置する金峯 山寺 は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯 山寺 のある吉 野山
- 興山寺 (廃寺)
- 興山寺 (こうざんじ)は、明治2年(1869年)まで 高野山 上に存在した寺院。 高野山 小田原谷の西端、本中院谷との境付近の北側、現金剛峯寺境内の西半分の敷地にあったが、現存しない。「 興山寺 」の寺名は、 高野山 の「中興開山」から来ている。行人方の役寺で、文殊院とも号した。本尊は阿弥陀如来。
- 金山寺味噌
- 野菜の入っていない、あるいは上記以外の野菜入りの製品も金 山寺 味噌と表記される。 鎌倉時代、禅僧心地覚心(法燈国師)は宋に渡り、浙江省杭州にあった径 山興 聖万寿禅寺(通称「徑 山寺 」)で修業し、そこで作られていた嘗味噌の製法も学んだ。帰国後、 高野山 金剛峯寺を経て、開山した興国寺の周辺に伝えたとされている
- 真言宗智山派
- 真言宗智山派の歴史は根来寺の塔頭智積院の開創に始まる。智積院は、もともと根来寺の塔頭であった。根来寺の前身である大伝法院は覚鑁が大治5年(1130年)に 高野山 に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は 高野山 を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代にこの大伝法院の塔頭とし
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