精矛神社
基本情報
- 所在地
- 〒899-5204
鹿児島県姶良市加治木町日木山311
- TEL / FAX
-
0995-62-5716
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 神社
- コメント
- 最寄り駅
- JR日豊本線 加治木 610m
- JR日豊本線 錦江 2280m
- JR日豊本線 帖佐 4460m
- 周辺情報
- 加治木駅(JR) 駅(JR在来線)
- 鹿児島県立加治木工業高校 高校
ウィキペディア検索
- 精矛神社
- 精矛神社 (くわしほこじんじゃ)は、鹿児島県姶良市加治木町日木山に鎮座する 神社 。旧社格は県社。 精矛 厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)(島津義弘公)を祀る。 明治2年(1869年)に現在の鹿児島県立加治木高等学校、柁城小学校の敷地に当たる場所(ここは祭神でもある島津義弘が亡くなるまで過ごしてい
- 島津久崇
- 小学生の時まで野太刀自顕流を修行する。鹿児島修学館高等学校を卒業後は、東京薬科大学生命科学部に進学。大学在学中に神職の資格を取得し、2014年2月より、 精矛神社 の権禰宜に任命される。その年の3月に東京薬科大学を中退し、4月からは帝京大学法学部に編入した。 父:島津義秀 [脚注の使い方] ^ a b c d
- 島津義秀
- 生まれ、小学3年生で東京に転居。大東文化大学文学部を卒業後は、鹿児島県で島津家宗家や一門が経営する島津興業に入社。姓は母方で鹿児島に移住している。 精矛神社 の宮司も務めている。2000年には青少年育成の「青雲舎」を川上幸男と曾木重隆と共に復興した。 2001年に島津興業を退職し、宮司の仕事もこなしなが
- 島津義弘
- 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり」 の2首が伝わっている。 墓所は長谷場御墓(福昌寺跡)にあり、位牌は日置市の妙円寺にある。鶴嶺 神社 、徳重 神社 、 精矛神社 に祭られている。 JR九州伊集院駅前には、彫刻家の中村晋也が制作して昭和63年(1988年)10月に建立された、勇ましく馬にまたがる義弘の
- 肝付兼盛
- 忠元と共に大口城を攻め落城させると島津義久から感状と曽於郡上三台堂を与えられた。 その後も大隅を統一すべく、肝付宗家・伊地知氏・禰寝氏との合戦や、天正4年(1576年)の日向国高原城攻めなど数々の合戦に参加したが、天正6年に没する。享年46。 精矛神社 - 近くの東禅寺墓地跡地に現在は葬られている。
- 徳重神社
- 徳重 神社 (とくしげじんじゃ)は、鹿児島県日置市伊集院町徳重にある 神社 。祭神は島津義弘こと 精矛 厳健雄命。現在は「とくしげじんじゃ」と読み慣わしているが、本来の読み方は「さきへじんじゃ」であった。 例年10月第4日曜日に鹿児島市から徳重 神社 を詣でる「妙円寺詣り」が行われることで知られる。 精矛
- 島津氏
- ^ ただし、西本誠司は「島津義弘の本宗家家督相続について」の脚注中で元和2年(1616年)に建立された加治木町(現・姶良市)の 精矛神社 (かつての義弘居館)内の経塚の碑文(現在破損)に「島津十七代藤原義弘」と署名していたと伝えられる件を指摘し、慶長16年(1611年)に兄・義久が没
- 住吉神社 (福岡市)
- の記載があるほか、境内からは弥生時代の銅戈・銅鉾(銅 矛 )が出土したとも伝えられることから、当地が古くから海人族にとっての聖地であったとする説もある。 なお『筑前国続風土記拾遺』では、当社の元地を現人 神社 (福岡県那珂川市)とする。この伝承では現人 神社 の地まで海岸線であったとし、海岸線の後退とともに現在
- 古事記
- 大気都比売神(おおげつひめのかみ)、オオゲツヒメ 八岐大蛇(やまたのおろち) スサノオの神裔 大国主神(おおくにぬしのかみ) 因幡の白兎 八十神(やそかみ)の迫害 根の国訪問 八千 矛神 (やちほこのかみ)の妻問い物語 大国主神の神裔 少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と御諸山(みもろやま)の神 大年神(おおとしのかみ)の神裔 葦原中国平定
- アメノヒボコ
- 出石 神社 姫島 新羅 アメノヒボコは、記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの新羅人または渡来神。 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日 矛 」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。 『日本神話』・『古事記』等では渡来人、『播
企業データ
PAGE TOP