青松寺
基本情報
- 所在地
- 〒989-3213
宮城県仙台市青葉区大倉字高畑28-3
- TEL / FAX
-
022-393-2158
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR仙山線 熊ヶ根 2960m
- JR仙山線 陸前白沢 4250m
- JR仙山線 作並 6360m
- 周辺情報
- 大倉湖畔公園 近隣公園
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- 青松寺
- 青松寺 (せいしょうじ)は、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(ばんねんざん)。 江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際
- 曹洞宗
- 栃木県栃木市- 関三刹の一。 總寧寺 - 千葉県市川市 - 関三刹の一。 龍穏寺 - 埼玉県入間郡越生町 - 関三刹の一。 高岩寺(とげぬき地蔵) - 東京都豊島区 青松寺 - 東京都港区 - 江戸三箇寺の一。 泉岳寺 - 東京都港区 - 江戸三箇寺の一。 総泉寺 - 東京都板橋区 - 江戸三箇寺の一。現在は単立。 興禅寺
- 愛宕 (東京都港区)
- 寿桂院・普賢院・金剛院、愛宕山参道を跨いで円福寺・吟窓(宗)院・考寿(光樹)院・伝叟(宗)院・清岸院と微小な寺院が櫛比し、そして 青松寺 ・青龍寺と続いた。この内真福寺・ 青松寺 ・青龍寺は現存し、考寿院・清岸院・伝叟院は愛宕内で移転存続している。また、表通りを愛宕下広小路、北の通りを鎧小路、南の通りを切通と呼んだ。
- 泉岳寺
- 泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。 青松寺 ・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。 慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建した寺院。寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅
- 土佐藩
- 致道館 本国における菩提寺は、曹洞宗の日輪山真如寺である。なお、江戸で藩主や家臣が死去した際に使う菩提寺は貝塚にあった曹洞宗万年山 青松寺 であり、同寺は長州藩も菩提寺としていた。 山内家 外様 20万2600石 豊景 豊秋 豊功 土佐中村藩 土佐新田藩 深尾氏(土佐佐川領1万石・藩主一門)…
- 毛利元次
- 青松寺 に葬られる。 長女:逸子(1693-1695) - 元禄6年6月12日(1693年7月14日)に江戸三田邸において出生。元禄7年12月21日(1695年2月4日)に三田邸において死去。享年2。戒名は長光院殿善応映珠禅公女。 青松寺 に葬られる。 継室:松平頼隆の娘(
- 毛利松平
- 1985年5月24日、心筋梗塞のため死去。71歳没。墓所は愛宕の 青松寺 。 大洲市沼田と八幡浜市日土町とを結ぶ道路の開通に尽力したことを称え、その道路の最高高度の地点、ちょうど大洲と日土の境界になる地点に「毛利松平先生彰徳碑」が建てられている。また東京都の 青松寺 に墓石が建てられている。 データベース『愛媛の記憶』(毛利松平)
- 毛利元賢
- 死去した。享年21。兄の元次が養嗣子となり跡を継いだ。法号は大陽院殿玉峰澄和大居士。墓所は山口県周南市舞車の大成寺徳山毛利家墓所と東京都港区愛宕の 青松寺 。 父:毛利就隆(1602-1679) 母:禅海院 - 中川重政の娘 正室:玄好院 - 酒井忠直の娘 養子 男子:毛利元次(1668-1719) -
- 交詢社
- 諮詢スル」に由来する。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案し、林金兵衛が構想に関わり、宇都宮三郎から煉瓦家屋を譲り受け、同年1月25日に 青松寺 (東京芝区愛宕下)で交詢社の発会式が行われ、24名が常議員となった(→#発足時の常議員)。 慶應義塾出身者が中心であるが、一般の加入者もあった。1
- 毛利元尭
- 瘡が原因で今井谷邸において死去した。享年20。実子がいなかったため、異母弟の広豊が跡を継いだ。法号は豪徳院殿家山紹運大居士。墓所は東京都港区愛宕の 青松寺 。 父:毛利元次(1668-1719) 母:蓮性院(?-1717) - 毛利元次の側室。名は宮内。享保2年3月23日(1717年5月4日)に死去。
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