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崇光院

基本情報

所在地
〒989-3431
宮城県仙台市青葉区作並字岩谷堂14-2
TEL / FAX
022-395-2918
e-MAIL
URL
業種
寺院
コメント
最寄り駅
JR仙山線 作並 1070m
JR仙山線 熊ヶ根 3960m
JR仙山線 奥新川 4210m
周辺情報
仙台市立作並小学校 小学

関連情報

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崇光天皇
園天皇)が、2人の息子に先立たれて後継者を失った後小松 院 の猶子として即位し、血統上ではあるものの 崇光 の皇統は天皇家に返り咲いた。その後、貞成親王に後花園天皇の「傍親(兄)」として尊号宣下が行われた。貞成が死後に上皇として贈られた 院 号は、後 崇光院 であった。 琵琶に関する著作を多数書写したほか、日記として『崇暦御記』『不知記』が残る。
持明院統
崇光 上皇は激しく反発して実弟や甥と対立した。ここに、伏見 院 以来当主のもとに結束していた持明 院 統は、 崇光 天皇の 崇光院 流皇統、後光厳天皇の後光厳 院 流皇統の二つに分裂したのである。 更に11年後に後円融天皇は実子の後小松天皇に譲位した。この際、既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳 院
伏見宮貞成親王
。世襲親王家の伏見宮第3代当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどうしんのう)。太上法皇としての 院 号は北朝第3代 崇光 天皇の孫にあたることから、後 崇光院 (ごすこういん)または後 崇光 天皇(ごすこうてんのう)。 「現在の皇室」(うち今上天皇・明仁上皇及び生まれながらの皇族)と、1947年(昭
後花園天皇
1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉)。諱は彦仁(ひこひと)。 伏見宮貞成親王(後 崇光院 。 崇光 天皇の孫)の第一王子。母は庭田経有の女の庭田幸子(敷政門 院 )。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。
北朝 (日本)
崇光 天皇の曾孫にあたる後花園天皇が後小松上皇の猶子として践祚した。後花園天皇は、後光厳 院 流皇統の後継者としての立場を明確にしたが、実父の貞成親王を兄とした上で尊号(太上天皇)を宣下した。後光厳 院 流皇統を存続させつつ、 崇光院 流皇統も温存させるためであった。こうして、百年近くに及んだ後光厳 院
後光厳天皇
光厳天皇(上皇)の第二皇子、もしくは第三皇子。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子(陽禄門 院 )。 正平一統で北朝が一時的に解消した後、急遽、三種の神器も太上天皇の詔宣も無くして践祚。在位中、南朝に三度も京都を追われる。兄 崇光 上皇との皇位継承問題では、室町幕府や公卿たちの支持を得て、自身の皇子への譲位に成功した。
庭田幸子
幸子の叔母である杉殿(庭田資子)は 崇光院 の典侍となって貞成親王の父である栄仁親王を生んでいる。即ち、貞成親王は幸子の配偶者であると共に従甥にもあたる。この事から松薗斉は、庭田家が 崇光院 や伏見宮家など皇室に仕えるために早い時期に伏見に居を構えているため、幸子も
看聞日記
『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後 崇光院 、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書
長講堂領
院 の長講堂領領有を認めた。この一統を機に持明 院 統(北朝)の皇統が 崇光院 の系統から後光厳天皇の系統へ移ったため、皇位継承と並んで長講堂領の継承を巡る紛争が発生した(光厳 院 は 崇光院 の皇太子であった直仁親王の子孫への継承を計画していたが、一統の結果として直仁の皇位継承が絶望となったため、長講堂領を 崇光院
本朝皇胤紹運録
著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。 現在の皇統譜と異なり、神功皇后や北朝の光厳 院 ・光明院・ 崇光院 ・後光厳 院 ・後円融 院 を歴代天皇とする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上 院 ・長慶 院 ・後亀山 院 を歴代外としており、北朝正統に依拠している。本朝皇胤紹運録の編纂には、南朝の天皇の正統性を

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