大宝院
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- 大宝院
- 大宝院 (だいほういん)は、以下の人物、寺院の 院 号。 人物 大宝院 (石井忠俊の娘) - 石井忠俊の娘、石井信忠の正室、深堀純賢の継室、鍋島茂里および鍋島茂賢の母。 寺院 大宝院 (江南市) - 愛知県江南市にある真言宗の寺院。 津観音 - 三重県津市にある真言宗醍醐派の寺院。 一宮寺 - 香川県高松市にある真言宗御室派の寺院。
- 一宮寺
- 納経印:当寺本尊、地獄の釜参拝記念印 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として 大宝 年間(701年 – 704年)に建立され、年号にちなみ 大宝院 と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修
- 真言宗醍醐派
- 中興 義演准后 三 宝院 流 洞泉相承と伝えられるが醍醐寺発行の血脈には洞泉房性善の名はなく実質的に定済方である)。また斎藤明道『三 宝院 流幸心方四度加行伝授目録』によれば「醍醐三 宝院 は彼の定済の末流なり。然るに後の門跡賢俊、光済等の時、武家眤近の権柄を執て法流に於ては大概断絶するか、無念の事也(中略)今当 院
- 津観音
- また 大宝院 第九代 院 家の法印長堯は優れた書家で、豊臣秀吉の手習学問の師範であったので、秀吉出陣の際には常に祈念を怠らなかった。この恩義に報い秀吉は六大 院 に寺領百石を付する朱印状を下した。長堯法印の字(あざな)を 大宝 坊といったところから、この後六大 院 を 大宝院
- 下妻市
- 下妻城 大宝城(蹟)(関城・ 大宝 城の戦い) - 大宝 667 大宝 八幡宮 – 大宝 667 小貝川ふれあい公園 – 堀篭1650 ビアスパークしもつま – 長塚乙70-3 下妻市ふるさと博物館 – 長塚乙77 筑波サーキット – 村岡乙159 曹洞宗 潜龍山多 宝院 (多寶 院 、紫雲 院 ) – 下妻乙1035 –
- 鍋島茂賢
- 佐賀藩深堀邑主(深堀氏第20代、深堀鍋島家初代)。前室は龍造寺家俊の娘、後室は龍造寺長信の娘真光 院 。 龍造寺氏の重臣石井安芸守信忠の次男。母は 大宝院 (石井左衛門尉忠俊の娘、陽泰 院 の姪)で、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の従姉にあたる。 孫六、七左衛門、伊豆守、安芸守、茂忠と称す。系図によっては
- 大宝地震
- 大宝 地震(たいほうじしん)は飛鳥時代終盤に近畿地方北部で発生した大地震である。『続日本紀』に記述されている地震としては最古のもので、古記録の解釈にも諸説ある歴史地震である。震源は判明していないが、現在の京都府を中心とした日本海側の地域に津波の伝承が残っている。 この地震の17年前には南海トラフ巨大地震と推定される白鳳地震が発生している。
- 石井忠俊
- 周家に従い、奮戦するも戦死した。『北肥戦誌』にその名がみえる。 正室は、宗家石井兵部少輔常延の長女法性 院 。後に佐賀藩祖鍋島直茂の正室となる陽泰 院 の実姉である。 子女には、嫡男兵部少輔忠正、女子 大宝院 がいた。兄妹は、外祖父常延が引き取って養育した。常延は、父を喪った孫たちを不憫に思い、忠正の元服にあた
- 鍋島茂里
- 永禄12年(1569年)、龍造寺隆信の重臣石井信忠の嫡男として生まれる。母は 大宝院 (石井忠俊の娘)。最初の名は石井太郎五郎。実弟に鍋島茂賢(石井孫六)がいる。母の 大宝院 は鍋島直茂の正室陽泰 院 の姪、鍋島勝茂(佐賀藩初代藩主)の従姉であり、茂里は石井兵部少輔常延の曾孫にあたる。
- 妙玉寺
- なお、山号寺号はいずれも、忠次の次男石井信忠の室の戒名「 大宝院 妙玉日伝大姉」に因んで、 大宝 山妙玉寺とする。信忠・ 大宝院 夫妻の長男鍋島茂里(佐賀藩祖鍋島直茂の婿養子)、次男鍋島茂賢も当寺に帰依している。 鍋島茂里・月窓 院 (佐賀藩祖鍋島直茂長女)夫妻の墓所 鍋島茂賢・真光 院 (龍造寺長信の娘)夫妻および殉死者18名の墓所
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