金鐘寺
基本情報
- 所在地
- 〒993-0034
山形県長井市歌丸1351
- TEL / FAX
-
0238-88-9212
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- JR米坂線 今泉 940m
- 山形鉄道フラワー長井線 今泉 940m
- 山形鉄道フラワー長井線 時庭 2110m
- JR米坂線 萩生 2610m
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- 良弁
- 金鐘 行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて 金鐘寺 となった。 天平12年(740年)、『華厳経』の講師として 金鐘寺 に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には 金鐘寺
- 東大寺法華堂
- 金鐘寺 (こんしゅじ、きんしょうじ)に属した仏堂であって、本尊像も同じ頃の造立であるということは大筋で認められている。 東大寺境内東方の春日山麓には東大寺と関係の深い複数の寺院が存在した。前出の 金鐘寺 ( 金鐘 山房)とは別に、光明皇后の発願で春日山西麓に建立された福寿 寺
- 華厳宗
- (古代新羅)にも伝わり、義湘によって広められる。 日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。 金鐘寺 (後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この 寺 において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-74
- 東大寺
- 金鐘寺 (または金鍾 寺 (こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが 金鐘寺 の前身と見られる。 金鐘寺
- 東大寺盧舎那仏像
- 紫香楽宮近くの甲賀 寺 に大仏の骨柱を立てる。(続紀) 天平17年(745年) - 恭仁宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文) 天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は 金鐘寺
- 東大寺の歴史
- 東大寺創建前、当地には、 金鐘寺 、福寿 寺 、天地院(法蓮寺)などの 寺 々の存在が確認されている。このうち、 金鐘寺 と福寿 寺 については後の東大寺との関係性について、文献研究や発掘による研究が進められている。 金鐘寺 は、 金鐘 山房、金鍾 寺 、金鷲 寺 、金熟 寺 と書かれることもある。読みについても諸説あ
- 審祥
- 「新羅へ留学した学僧」と解釈される場合が多い。 天平年間(729年 - 749年)に帰国して、奈良大安寺に住した。 740年(天平12年)、良弁が 金鐘寺 で始めた華厳経の講説では3年間講師をつとめた。 当時、有数の経論の所蔵者であったようで、写経所に対して頻繁に経論を貸し出していたようである。 『花厳起信観行法門』
- 益田金鐘
- 益田 金鐘 (ますだ の こんしょう、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。姓は直。 益田氏には、東大寺大仏殿の造立に功績があり、後に連姓を賜与される大工の益田縄手などがおり、東大寺の前身が「 金鐘寺 」であることから、姓は異なるが、 金鐘 も東大寺に関連の深い一族の出身であったものと見られる。
- いちき串木野市
- 中旬頃「七夕踊」 踊りの起源は約400年前に遡り、島津義弘の朝鮮の役での活躍を称えたものとして踊られたのが始まりと一般に伝えられている。その約90年後、 金鐘寺 住職の捨範叟と地頭の床濤到住が大里水田への用水路建設を実施し、天和4年(1684年)に用水路が完成、大里水田開拓を記念して再び踊り始められた。大里
- 法華寺
- 年(744年)6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という 寺 名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である 金鐘寺 に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。
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