勧修寺
基本情報
- 所在地
- 〒920-0011
石川県金沢市松寺町丑180
- TEL / FAX
-
076-238-0341
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 北陸鉄道浅野川線 割出 490m
- 北陸鉄道浅野川線 三口 610m
- 北陸鉄道浅野川線 磯部 960m
- 周辺情報
- 割出駅(北陸鉄道) 駅(他社線)
- 金沢市立浅野川中学校 中学
- 金沢市民球場 野球場
- 松寺保育園 保育所
- 光仁会木島病院 病院(動物は除く)
- 城北市民テニスコート テニスコート
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- 勧修寺
- 勧修寺 (かじゅうじ)は、京都市山科区 勧修寺 にある真言宗山階派の大本山の寺院。山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
- 勧修寺婧子
- 修寺 系圖」(「母仲庸女」と記載)が挙げられている。 ^ 東京大学史料編纂所所蔵『 勧修寺 家譜』36頁には「母家女房」と記されており、他の史料と異なる。ただし、元の家譜は1864年の禁門の変で失われており、これは明治8年に 勧修寺 顕允により差し出されたものである。 ^
- 勧修寺家
- 勧修寺 家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)は、藤原北家 勧修寺 流支流の公家・華族である。公家としての家格は名家、華族としての家格は伯爵家。 藤原高藤の子孫の系統を「 勧修寺 流」と言うが、嫡流は 勧修寺 家ではなく、甘露寺家である。ただし、戦国時代から江戸時代初期に 勧修寺
- 勧修寺流
- 勧修寺 流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。 「 勧修寺 」の寺名とともに、今日では「かじゅうじ」と読むのが一般的だが、中世の日記等では「くわんしゆし」との仮名表記も散見され、「かんじゅじ」とも読まれていたことがうかがわれる。なお、 勧修寺
- 勧修寺晴秀
- 勧修寺 晴秀(かじゅうじ はるひで)は、戦国時代から安土桃山時代の公卿。 内大臣・ 勧修寺 尹豊の子。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、晴秀と名乗る(のち晴右(はれみぎ[出典無効]/はるすけ/はれすけ)に改名)。号は松国。 天文19年(1550年)11月26日、参議、後に権中納言。 天正元年(1573年)、権大納言。
- 勧修寺晴子
- 勧修寺 晴子(かじゅうじ はるこ、1553年(天文22年) - 1620年3月21日(元和6年2月18日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。誠仁親王(正親町天皇の第 5皇子)の女房。後陽成天皇の生母(国母)。女院。 院号は新上東門院(しんじょうとうもんいん)。 父は 勧修寺
- 藤原北家
- 3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。 派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、 勧修寺 流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤を
- 勧修寺藤子
- 勧修寺 藤子(かじゅうじ ふじこ、寛正5年8月26日(1464年9月27日) - 天文4年1月11日(1535年2月13日))は、後柏原天皇の典侍で、後奈良天皇の国母。女院。院号は豊楽門院(ぶらくもんいん)。 寛正5年(1464年)、准大臣・ 勧修寺 教秀の娘として誕生。母は飛鳥井雅永の娘。姉の 勧修寺
- 勧修寺経逸
- 勧修寺 経逸(かじゅうじ つねはや)は、江戸時代の公家(公卿)。仁孝天皇の外祖父。権大納言 勧修寺 顕道の次男。母は臼杵藩主稲葉恒通の娘。兄権右中弁 勧修寺 敬明の養子となる。正二位権大納言。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である 勧修寺 家の23代当主。
- 勧修寺晴豊
- 本来の表記は「勸 修寺 晴豐」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ / はれとよ)は、安土桃山時代の公家(公卿)。姓は「かんじゅじ」とも。 堂上家の 勧修寺 家(名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)の14代当主
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